消費社会から格差社会へ
★★★★★
この本を読んで、マーケティングとは何か?というものを教えてもらった気がします。
三浦展さんがパルコに所属していて、マーケティング調査を行い、その調査に基づき
流行を解明していくプロセスに驚きました。
三浦展さんについては下流社会から注目をしましたが、その根底にはこのような苦労が
あったことを知り、より深く理解できたと思います。
パルコの開店にはいろいろな意味があったということも知りました。
また、団塊の世代の育てられ方、そのジュニアの存在についてはなるほどなと思いました。
上野千鶴子さんについてははじめての出会いでしたがもっと詳しく知りたくなりました。
上野さん辻井喬さんの対談本があるそうなので、ぜひ読んでみたいです。
会話になってない
★★☆☆☆
本書のタイトルは『消費社会から格差社会へ』。
「まぁ、そうなってますねぇ」という感想なのだが、内容の方も、これといって新鮮味はない。お互い持っている知識をひけらかしているのだが、それ以上深まっていかないのだ。目新しいところといえば、三浦の『アクロス』編集部時代の話ぐらいか。
そもそもこの本、昨今の対談本のご多分にもれず、対談本という体であるにもかかわらず対談になっていないのだ。
三浦は『「かまやつ女」の時代―女性格差社会の到来』などで露呈したとおり、ジェンダー規範に従順なタイプの女を支持している(好みとしている?)のである。それに対して「肩で風を切って歩くフェミニスト」(古っ!)、上野千鶴子が黙っているはずない、と思われるのだが、どうもそこらへんで真正面からは衝突しない。
三浦は三浦で、本の全編にわたって上野に遠慮がちである。これは上野の年下であるからしかたないのかもしれないが、なによりも上野である。
「エビちゃんOLvsかまやつ女」「ゆとり教育vs近代型教育」など、争点としてキャッチーで盛り上がりそうな話題も出てきているのだが、そのたびに「団塊親―団塊ジュニア」という世代論に逃げ込む。二項対立を悪い意味で「止揚」しているのだ。
三浦と上野が対談する以上、上の二つの争点でもっと意見を戦わせてほしいと思うし、言いたいことがあるならお互い単著を出せばいいのに、と思うのだが、そこにはこの二人を抱き合わせれば、それなりに売れるだろうという目論見もあるのだろう。
なにせ今をときめく『下流社会』の「三浦展」と「上野千鶴子」である。その二人の名前が、表紙に「どどーんっ!」と二つ並べた日にゃ、購買欲をそそらないわけがない。
この本読んで、数年前にビッグな俳優二人をキャスティングした挙句コケた、『ジャッカル』という映画を思い出した。
ズル〜
★★☆☆☆
上野チェンチェエも東大教授に成り上がれば、お一人様の老後も安心つーことで、あとは高見の見物ということでしょうか。
分析そのものには鋭い部分もあるけれど、結局他人事。
どんなのが理想の社会なのかと問われても(p45)、ゴニョゴニョごまかして逃げるだけ。フェミニストにはもうグランドデザインは提供出来ないのだ。
そうなるとやれることは個々の気に入らないことにイヤミを言ってみせることだけ。都合の悪いことはみんな世の中のせい。
上野の場合、悪口芸はそれなりに面白くはあるけれど。
こんな無責任オバチャンに乗せられて、どうにもなんなくなってしまった女たちはホント可哀想ですよ。
最近の女の子は上野の本なんか読みゃしないんだろうから大丈夫なんでしょうけどねえ。
三浦センセはいつもの調子です。必殺テキトー印象分析。
ラストの80年代思い出話は面白い人には面白いでしょう。
上野って、ホント、読ませる座談をするんですよねェ
★★★★☆
上野は三浦について、「社会学的想像力が豊かで、社会学者にしたいくらいだと思っていましたら、もうすでに郊外社会学者を名乗っておられたので、我が意を得た思いでした」(p143)と賞賛する。
しかし例えば『下流社会』での宮台真司批判に関して三浦は、その「下劣さ」を認めたうえで、「そういう下劣なものを大衆は好みますので、少し下劣にやろうかなということで」(p184)と開き直っており、それは要するに、三浦の書くものは大衆についての社会学的分析であると同時に、大衆に向けて差し出された商品でもある、ということを示唆する。
こんなことを言うと、自分自身、民間シンクタンクと関わりを保ちながらクライアントのいる商品としての分析や展望を書いてきて、日高六郎の「消費社会を超える感性は、消費社会の中で生まれ育った感性の中からしか生まれない」という言葉に感心する上野のことだから(p157)、「当然でしょう。学術研究も市場の論理を逃れることはできません。今どき価値中立性や客観性を素朴に信じる人間がいるのは驚きですね」くらいのことは言いそうだ。
つまり、2人は似たもの同士なのだ。自称「野育ち」の上野としては、それこそ宮台真司みたいにマーケッター的センスの研究者が好みなのだろう。「これから一五年の彼ら(団塊男)の生き方は、たしかに注目に値する」(p89)なんて件りを読んでも、上野のマーケッターとしての嗅覚がピクピク動いているような気がする。
ただ本書で唯一、2人が徹底的に対立しているのが堤清二に対する評価。セゾンの経営スタイルを成長型の近代主義と見て、その蹉跌を歴史的なマクロ要因で説明するか、堤清二という個人の破滅への衝動で説明するかで、三浦は上野に対し一歩も譲らない。この対話が、上野と辻井喬の対談集『ポスト消費社会のゆくえ』(08)に微妙な影を落としているように思う。
上野と三浦の話がかみ合うことの意外性と面白さ
★★★★☆
80年代から「格差社会」の萌芽はあった、という上野の指摘は鋭い。ほら、マル金、マルビとかも実は全然ギャグじゃなかったって言うさ。“「個性化」っていうのは、格差を正当化するイデオロギー”ってのも鋭いよな。連赤ってキーワードで大塚英志と北田暁大に着目しているのも新鮮だった。とにかく上野千鶴子っていったらフェニミズムっていう先入観があったんだけど、 “おひとりさま”とか、ここに来てマスイメージ的にポピュラリティーを獲得しているっていうか、活動の幅を拡げていてるっていうか、なんか「やるじゃん!」って感じである。
この対談で両者がフォーカスしてるのは、フェースシートで言うと「性別」「年齢(年代)」「年収」なんだけど、この属性に関しての言及はかなり今の社会の正確な見取り図になってるよね。上野千鶴子と三浦展でこんなに話がかみ合ってるのが意外だったし面白かった。両者の接点は、パルコ・セゾン文化なんだよな。スタンスは違うにしろ、そこを主体的に通過しているかどうかっていう。「アクロス」は、80年代に広告、マーケティング業界に身をやつしてた人間にとっては、ピンの奴もキリの奴も、きっとみんなお世話になってたよね。キリに属していた私も、三浦が言うように、「アクロス」は何度となくブレストのたたきにさせてもらいました。
まぁ、あと両者の共通の仮想敵は「団塊」ね。上野は同世代として、三浦は“団塊の歩いた跡はペンペン草も生えない”っていう、割りを食った下の世代として。そこら辺は読者の多数も共感できちゃう文脈である。
上野の言う「結婚願望を持ちながら非婚化が進むとか、ファミリー志向を持ったままでホームレス化するとかになると、願望を持ちながら達成できない自分に対する敗北感や劣等感をずっと持ち続けることになる。そういう場合には、トラブルが起きるかもしれない」って認識は、大澤真幸の近著、「不可能性の時代」と共通の認識だね。