再読してチャレンジできる楽しい?本だと思う。
★★★★☆
ヘーゲル哲学の系譜には、マルクス主義、実存主義、更にその派生態として20世紀の諸思想があるのだが、日本では極めて控えめにしか紹介されない系譜には、イギリスの新理想主義(ブラッドレーら)とか米国プラグマティズムがある。あまりの装いの違いに、それと気付きにくいのだが、そうでもない。読んでみると、露骨にヘーゲル哲学であることが分かる。パースやジェイムズは、かなり屈折した影響関係にしかないが、デューイは違う。意識的にヘーゲル派だったことは明らかであり、本書を読むと、ほぼ構えが、へーゲルの「歴史哲学」の序論に述べられた社会観が、ぴったりくる。「習慣」「衝動」「知性」によって織りなされる「人間本性」と「行為」を通して、「道徳」を考える。縦糸と横糸に「理性」と「情念」をもって、展開される人間の行動が、「制度」を潜り抜けるとき、「歴史」が生まれる、といったヘーゲルの「歴史哲学」を髣髴とさせる。「習慣」は「人倫」の起源のSitteであって、この点でも親近性はある。超越的な義務や道徳論を廃して、「人間本性」に則った妥当な「道徳」とはなにか考察する本書は、それだけでも、ヘーゲル哲学と同じモチーフだと思う。情念や欲望を軽視せず積極的に評価して「倫理」を確立しようとしている。目指すところは「自由」である点も同じだ。だが、多くの違いもある。とくに、自由論の段階では、あまりにも、デューイの思想は、資本主義的、産業主義的ではないかと不満が募る。ヘーゲルの思想が、スミスらの古典派経済学と同根の思想であったことを思えば、ヘーゲル哲学自体が、そういう要素があったことは事実だが、同時に「神学」でもあったヘーゲル哲学は、「自由」や「倫理」の問題をもっと「精神」そのものの問題として捉えていた。ゆえに「市民社会」における「疎外論」も鮮やかな指摘であった。が、デューイには、そういうネガティヴな視点は希薄で、全て科学的な合理性と必然性によって漸進的に解決されていくかのようだ。ところで、デューイの文書は難しい。英語だがなかなか原典読破は容易でないと思う。本書は最善の翻訳なのかもしれないが、分かりやすくはない。巻末の解説は、本書の解説部分は少ないが、わかりやすいとはいえない。たぶん、ミードにしてもデューイにしても、つい独逸哲学の系譜で「意識哲学」の発想とで取り組むとどこか話がずれてしまうのだろう。翻訳者の指摘はそういう警告に思えるのだが、さて実際に当たってみると、容易にその辺が我が物に出来ない。そういう意味では飽きないでまたチャレンジできる良い本であると思える。