少々、左側の言論に寄りすぎ・・・と言うか、剥き出しにし過ぎの気がします。現在、同調できる人は少ないでしょう。小説の技法を駆使しながらもその言説は旧態依然たるものがあり、鼻白む想いでした。
現在、国民の間に広がる改憲志向と、ナショナリズムへの躊躇の減衰を「体制側の邪悪な姦計と品位の低さ」に帰そうとする態度は、共産党の硬直した態度と瓜二つです。
自ら(のみ)を高みに置き(そのために樋口一葉を自分らのイメージガールに使い)、自分らが批判を加える相手が「もしかしたら彼らなりに国家国民のためを思って行動している可能性もあり、そのほうが病根は深いと言わざるを得ない」という想像力を(故意か自然にか)働かせることも無い・・・かつて徹底したディテールの集積で、批判すべき対象を重層的かつ複雑に描いた作者が、なぜ・・・?と疑問を抱かざるをえません。
オウム教団と国家権力は近親憎悪の関係にある、というモチーフを、明確な論証無しに主張するために、このような作品を著したのではないか、と邪推(ならいいのですが)したくなります。
「大西巨人」という文字どおりの巨人を批判するには、もっと精緻で、十分な知識に裏づけされた論理が必要なことは分かっていますが・・・誰か、この作品の価値を教えてください^^;