「北斎」の冒頭では、物思いにふける人物が海辺にたたずみ、一見しっとりとした恋愛小説か?と思わせて、酒好きなタコ人間の話だったりする。満員電車で会社通いをするサラリーマン「うごろもち」などは、もぐら風の生き物でありながら妙に人間的で堅実な暮らしぶりをしているのがおかしい。「島崎」は、7代も前の先祖に恋してしまう老女という突拍子もない話だが、どこか『センセイの鞄』を彷彿とさせる純愛物語だ。「轟」は、エロチックな数え歌のよう。純和風な湿り気を帯びた人物たちの距離感、会話、関係性。それらを見事融合させていくやわらかなことばが、なつかしいようなやすらかな気持ちを呼び覚ましてくれる。
次々と風変わりな世界を示しながら、そんな世界があってもいい、と思わせる本書は、覚めたくないのに覚めてしまう夢のようだ。だれもが同じような幸せのかたちを求め、同じような生活を送る現代人にとって、「ふつうは」とか「この年だったら」といったすべての既成概念をふっとばす、現代のおとぎ話だ。(七戸綾子)