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世界史の構造

価格: ¥3,675
カテゴリ: 単行本
ブランド: 岩波書店
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ブーム再来?「セカイドウジカクメイ」というオマジナイ ★★★★☆
とても、面白く読め、刺激的でもありました。
「トランスクリティーク」よりずっと読みやすいとおもいます。

4種の交換形態と、資本・国家・ネーションの関連、そしてアソ
シエーション・・・と、なじみのテーマを勿論扱っているわけですが、
今回は序文で著者も語っているように、意識的に体系的な構成に
なっています。
分厚くはありますが、キーになるような観点は、論じる題材に即して、
丁寧に変奏しつつ繰り返し説明されているので、ヘーゲルをよむような
身構えもいりませんし、晦渋さに辟易となるようなことはないでしょう。
世の中の「見方」ということを、あまり意識して考えたことのない方には、
とりわけ(あってるとか、間違ってるとかの議論はさておき)
ひとつの面白いスキームを提供する本となるはずです。

ただ、最終章の著者の方向性については、正直ついていけない。
著者のいう「アソシエーションを実際に運用すべく始めた実験は
あえなく頓挫しました。
結局、「組織的な技術論の問題があっただけで、原理論的には問題なし」と
総括したんでしょうか?
そのころとあまりかわり映えしないように思いました。
「アソシエーション」は理念型だからいいとして、国連が殆ど国を超える審級として
機能も信じられもしてない現在、いくら突破口がそこにしかないからとはいえ、
「超越論的X」だの「他者」だのと、むりむりカントの永久平和にジョイントし、
錦の御旗を織り上げ、ありもしない活路がまさに現在ないがゆえに、逆に思念し
続けることこそに活路がある、という倒錯的な態度を提示してみせる。
やはり、ついていけないです。
しかも、その実現には1国だけがやってもだめで「セカイドウジカクメイ」が必要ナノダ・・・。
エッ?それ、どっかで読んだことあります。
たしか、昔、ヘルメット姿のお兄ちゃん達の間でブームになったオマジナイだった気がします。






本当のタイトルは『構想としての世界史認識』−著者が自ら負った大きな課題− ★★★★★
 本書のタイトルは『世界史の構造』となってはいるが、その叙述内容としては『構想としての世界史の現在』が妥当である。これが一読しての感想だった。
 『世界史像』を分析する際の視角として著者は“(経済活動を支える根幹としての)交換様式から社会構成体の歴史を見直す”としてマルクスの描出した「下部構造」と「上部構造」の関係及び「下部構造」=生産様式、としたマルクス主義的理解の再吟味の2点を提示する。
 確かに「下部構造」=生産様式、との理解に依拠する限りでは「資本=ネーション=国家」で説明される資本主義の在り方を説明することはかなり困難であり、また同時にA.ネグリに代表される「枠組みとして説明される領土国家を越えての資本主義経済(=帝国としての資本主義)」を説明することも同時に不可能となる。
 だがしかし、著者がこの本で追跡する「発展段階」はこれまでの主として社会経済史学者によって提示されてきた「社会構成体」に力点を置いて考察されてきたモデルである。この点では著者が提示した新たなモデルによる解釈との説明は姿を現しているとはいえない。
 例えば“アジア的デスポティズム”の扱いに関してもこれは“アジア的生産様式”の概念を構成する要素として主にマルクス主義経済史学者の間で長年議論され続けてきている問題であり(M.ヴェーバーも『古代社会経済史』の中で採り上げているが意味は異なる)。にもかかわらず著者はそれを何事もなかったかのように平板な記述ですり抜けている。
 発展段階のモデルに関しても“1日=24時間=1440分”のように明確な区分がなされるわけではない。ある段階から見ての前の段階の姿が残滓のようにその中に残り組み込まれていることも確かな現実である。また同時にそこにはそれぞれの国家なり組織が依って立っている段階の熟成度が作用し、それに規定されることも見逃すことの出来ない事実である。
 元々あったモデルを借りてきて、それに即して自らの新たなモデルを説明しようとするならば、「モデルA」と「モデルB」を対比的に説明する必要がある。
 そして本書最大の疑問点は本書に登場する「ホッブズ」「カント」といった固有名詞である。それまで「発展段階の考察」を行ってきた著者のスタンスが唐突に「認識論」へと転化する。それも例のマイケル・サンデルの話題本に登場する人物ばかりである。著者が採り上げるべきは『家族・私有財産・国家の起源』そして『経済学批判』である。にもかかわらず例の本を自らの著作の中に埋め込むような形で論理展開することには不可解以外の言葉はない。
 この著作が世に出る以前、著者の分析視角は“マルクスからカントを読み、カントからマルクスを読む”ことにあり、そこに隠されたキーワードは“ヘーゲルをどう認識するか”だった。この視点自体が魅力のある視点であるが、その延長線上にあるはずの今回の仕事では著者の狡さが顔をのぞかせる。自らの立場を“根本的に文学評論家”である、と表明し“体系的な仕事を嫌っていたし、また苦手でもあった”として自らのスタンスを曖昧なモノにしてしまったのである。これは「世界史的構想」を主眼とする上では無責任である、との批判を受けて当然のことであろう。
 むしろこの作品で著者に課された宿題が明らかとなり、それによって今後における著者の執筆活動が注目されるところである。少なくとも著者は「人類史としての世界史をその経済活動としての交換様式から見た場合にどのような姿が見え、将来的な展望をどう構築していくことができるか」との途轍もなく巨大なテーマを設定し挑戦しようとしているのだから。次回作で著者がどのような説明をするか、私は個人的に注目している。“文学評論家”としての著者が「歴史学」に対して挑戦状を叩き付けたのだから、必ず歴史学の側からは反論がなされるはずである。
無残なパッチワークとしての世界史論 ★★☆☆☆
 本書を眺めてがっかりした。以前に『トランスクリティーク』や『世界共和国へ』を読んで大方の検討はついていたが、予想にたがわず他人の学説のツギハギばかりである。どこに著者のオリジナリティがあるのだろうか?
 まず、世界史を見る視点をマルクスの生産様式から「交換様式」へ転換するというのは、他でもない宇野弘蔵の受け売りである。資本主義の総体を、価値実体としての生産過程からではなく価値形態=流通形態としての「交換様式」から把握することを提起したのは、いうまでもなく宇野『経済原論』の最大の成果である。そして、この狭義の「交換様式」を互酬・再分配と市場経済の対抗関係にまで拡張し、世界史をこの3者の対立として理解したのは、宇野にポランニーを接合し「広義の交換様式」を構想した玉野井芳郎であった。柄谷は、この宇野=玉野井の理論をそのまま借用したうえで、これに、意味ありげに「交換様式D」なるものを付け加える。それは、カントの目的の国であり、フロイトの抑圧された慾動であり、超越論的な統整理念としてのアソシエーションである、というわけである。
 しかしこのアソシエーションの理解そのものが少々おかしい。近年サンデルのコミュニタリアニズムが大流行しているが、サンデルによれば、アソシエーションは選好的で社会契約的な利害共同体であり、アリストテレス的な共通善に基づくコミュニティとしての共同体とは厳密に区別される。柄谷の交換様式Dは、略奪と再分配によって隠された互酬と贈与の復権であれば、アソシエーションではなくコミュニティと言うべきであろう。実際、我が国でも青木孝平などは、市場と国家への対抗を互酬的な共同体的関係性に求め、これをマルクスのコミュニタリアニズムとして評価している。コミュニタリアニズムは、カント=ロールズ的な「負荷なき自我」からなるアソシエ―ショニズムに対する批判でもある。柄谷はマッキーヴァーいらい常識的で、近年大いに注目されているアソシエーショニズムとコミュニタリアニズムとの違いさえ理解していないのではなかろうか。
 結局本書は「世界同時革命」なる大風呂敷にもかかわらず、根幹はマルクス、宇野、ポランニー、玉野井そして青木に連なる理論体系のパッチワークにすぎない。そこには体系的理論としての斬新さはまったくない。かつての栄光だけにすがる、老醜をさらした柄谷の無残な末路を見る思いがした。
世界史の終り ★★★★☆
柄谷行人は、現在の世界的な資本主義の諸問題を解決出来るのは
国連による世界同時革命であるという。
しかし、もし世界同時革命(資本主義の揚棄)が成功した場合、
世界史が終ってしまうのではないか。
問題が解決してしまうのだから。
これでは、柄谷が批判するフクヤマの自由主義による歴史の終り、
マルクスの聖書を元にした

楽園(原始社会)→苦難(資本主義による階級社会)→楽園(共産主義社会)

という歴史観と同じではないだろうか。

柄谷行人『世界史の構造』

 ルソーは個々人の意志を越えた「一般意志」をもってきて、これによってすべてを基礎づける。しかし、一般意志は個々人の意志を国家に従属させるものでしかない。ルソーのいう社会契約では、個々人は事実上存在していないのである。

柄谷行人の一文一文がこんなに短かったか。
英語版と日本語版を同時に書き、ニュアンスを一致させる為かと思う。
柄谷氏は最近、デリダやドゥルーズと違って
明確に書く、多義的な事は書かないと言っている。
出エジプト説や人類学の記述が少ないのが意外だった。
結論の「国連による世界同時革命を働きかけよ」も
四谷の講演ほど明確に主張されていない。
著者の最高傑作、昨今の最高傑作 ★★★★★
表題にある「世界史」に就いて独自の視点で語りきった名著。交換様式4つのパターンと近代社会構造の4つのパターンを駆使して古代から現代までの「世界」史を語りきるのだが、その明快さと躍動感のある文体は、非常に説得力を持って読者に訴えてくると思う。既存の歴史観は各歴史の段階に各社会形態や支配形態や生産形態をやや固定化して示す向きがあり、素朴な事実と付き合わせると腑に落ちない点があれこれ出てくるが、本書は如上のパターンを柔軟に駆使して、世界史を生産過程よりも交換過程としてとらえ、また経済と国家を切り離して考えない点が極めて「良識」に適っており、解釈を穏健で却ってインパクトの強いものにしている。カント、ヘーゲルらの哲学解釈に関する牽強付会的な部分は本書でも散見されるが、過去の書物に比べてそういったものは最小限に抑制され、著者の本を初めて読む人はさして気にもならないと思う。本書全体の出来栄えからすればそれはどうでもよいことに思える。商業資本主義と産業資本主義の解釈は非常に示唆的だし、旧左翼的な善悪二元論の痕跡は非常に希薄だ。産業資本が、労働者をまた消費者として呑みこんでいく過程、剰余価値に対する解釈は、他の論者の解釈に比して最も成功していると思うが、逆にそれでは何がいけないのかが、却ってわかりにくい部分も残る。無論実感からすると著者の主張は妥当に思えるが、周辺部の労働者や底辺的労働者は、奴隷的であると言うが、過去にはさらに状態が悪い場合が多いわけで、無意識的とはいえ或る面で「発展」を実現した事実も否定できない。また経営者の才覚に就いての評価は他のマルキスト同様最も語ることができていない。構造的な搾取や分配の問題はあると思うが、経営者や資本家、創業者などの才覚を評価の外において搾取を言うことは極端過ぎて「保守陣営」からは理解が得られにくいと思う。意外なのは「互酬性」の高次元の復活に活路を見出す点で、思考経緯は違うが、晩年サルトルが「贈与」に期待を持った迷いのようなものとどこか似ている。国連への期待は致しかたないと思うが、公平に言って残念だがヘーゲルのカント批判に対する回答にはならないと思う。総じて提案的な部分はあまり意味を成さないか、こんな分厚い本を書かなくても異口同音の話を耳にするわけで、あまり面白くない。逆に分析的な面は、左傾色調が強いが、一貫していて見事な「世界史」になっている。誰もこの水準で「世界史」に就いて語ってくれることはなかったのだ。著者若年のころの文学論以来の最高傑作と言いたい本書だった。