内村鑑三はなるほど偉大な思想家でありキリスト教徒であった。しかし、彼の弟子たちを眺めてみると、内村鑑三に酔ってしまった人間は怪しい方向に迷い込んでいることに気が付く。内村鑑三から多くを学びつつも、彼の「気概」に酔って気持ちよくなることは危険であると思う。
内村鑑三を師と仰ぎ多くを学ぶことは正しい。しかし彼個人だけを見つめて彼に惚れ込んではいけない。内村鑑三から独立して初めて内村の思想を獲得したと言えるであろう。
そのような視点から考える時、富岡幸一郎氏は未だ内村鑑三に陶酔している段階であり、内村から独立して内村を自分の内に取り込んではいないように見受けられる。そういう意味では著者はまだ未熟であると言えよう。そういう著者がこのような本を出版することに、ある種の危うさを感じるのは私だけであろうか。
なお、富岡幸一郎氏は三島由紀夫の死を記念し、賛美する「憂国忌」の発起人として名前を連ねていること、そして首相の靖国神社公式参拝にも肯定的な発言をし、御自身でもクリスチャンでありかつ靖国神社を礼拝している方であることを、申し添えておきたい。
第一章では、戦後日本の平和主義が「戦争の無い状態」という消極的な意味に留まる不毛なものであったことを批判します。つづく第二章ではキリスト再臨によって、つまり神の御手によって「救済」として実現される「平和」を待ち望むというかたちの(内村鑑三の)非戦論を紹介。第三章では神学と自然科学が手を結んで現代の「生態論的危機」に立ち向かっていくというビジョンが示され、第四章では保田與重郎を引いて、近代が破壊してきた理想的な「家郷」の生活を実現しようと努力するならば平和主義にしかなり得ないという論が展開されます。第五章ではカール・バルトの思想に基づいて、近代において宗教(神学)が堕落し、それがナチズムやブッシュのイラク侵略などをもたらしたこと、さらに貨幣や物質をフェティッシュとして崇めるかのような、「神の絶対性」を忘却した社会となってしまったことを批判。そして最後の第六章では、パレスチナ問題について、「政治学的」な論理ではなく「神学的」な論理によってこそ、「ユダヤ人とパレスチナ人の“共存”」への道筋が描かれうるのだと主張されます。
この僕の拙い要約から読み取るのは難しいのでしょうが(笑)、本書が注目に値するのは、「戦争はイヤだ」「とにかく命が大切だ」という戦後左翼の安直なヒューマニズムを批判していると同時に、イラク戦争というアメリカの暴挙を支持して恥じるところの無い日本の保守派への批判ともなっているからです。
いってみれば本書は、“戦争を否定するため”の「消極的平和論」ではなく、是が非でも肯定しなければならないような“理想(幸福な家郷や、神の絶対性)を肯定するため”の、「積極的平和論」。
左翼の平和主義は内実が空疎であり、右翼(保守派)の現実主義は――不義の侵略たるイラク戦争を平気で支持するのですから――非道徳的である。こんな時代に我々日本人が必要としているのは、本書のような「積極的平和論」なのではないでしょうか。