映画の政治性について
★★★★★
本作は『見ることの塩』と対をなす作品。
『見ることの塩』はパレスチナ、セルビアの旅を通じた思索の記録であったのに比べ、本作は著者の専門領域である映画を通じたパレスチナ・セルビア論。
巻頭の文章では、スピルバーグのミュンヘンに対する複雑な思いを吐露しつつ、作品の背後にあるパレスチナ観については静かに批判する。
どのような映画であれ政治性からは自由ではない。
表現されているものと表現されていないものを細かく分析することで、映像の背後にある政治性を鋭く切り取っているのは著者の映画批評の真骨頂。
パレスチナ問題やユーゴ内紛の複雑さは、それをテーマにして撮られた映画のみならず、映画人の生き方にも濃く投影されている。
例えばクストリッツァの毀誉褒貶と彼自信が選択している難しい立ち位置は、バルカン半島の物語を知らなければ理解できない。
イスラエルやパレスチナの映画を見たことのある日本人は少ないでしょうが、スピルバーグ、クストリッツァといった監督の作品を見たことのある人であれば、それらについて語られている章から読み始めると、著者の問題意識や批評のスタイルが飲み込めると思います。