鎌倉の最良のガイドブック−−覚園寺についての回想は感動的
★★★★★
鎌倉に、覚園寺(かくおんじ)と言ふお寺が有る。私が、緑深いこの古刹を初めて訪れたのは、1970年の晩春の事であった。中学の社会科見学で、この古刹を訪れた私は、その薬師堂の仏像たちと薬師堂を囲む緑に、そして、そこにおられた当時の御住職の話に深い感銘を受けた。この寺は、廃仏毀釈や、薬師堂の天井に残る足利尊氏の筆跡の故に受けた戦争中の圧迫を経て、更には戦後の乱開発から境内の自然を守り抜いた名刹である。その覚園寺と御住職に惹かれた私は、以来、鎌倉を訪れ続けて来た。
この本は、その鎌倉に1962年から住み続けて来た作家の永井路子さんが、御自身の思ひ出をこめて書いた、鎌倉の案内書である。内容は、1971年に出版された初版本を、2001年に、著者が改訂した物だが、その30年間に著者が目撃した鎌倉の変化−−自然が失われ、風景が変はった事−−は、冒頭の「やや感傷的なまえがき」から、痛いほど伝わって来る。しかし、それでも、著者が若い頃から歩いて来た鎌倉の無数の散歩道を、昔の思ひ出を織り交ぜながら語り、案内するこの本の文章は、他書では、決して読めない物である。例えば、上の覚園寺について、著者はこう回想する。(以下引用)−−戦後まもなくこの寺(覚園寺)をはじめて訪れた時のことが私には忘れられない。寒々とした本堂で御住職は、何時間も宗教や、戦争や、人間について熱っぽく語られた。私は時の経つのも忘れた。その間誰ひとり寺を訪れる人もいなかった。薬師堂の三尊のすばらしさを含めて鎌倉を再認識したのはこのとき以来である。御住職の姿勢はそのころとちっとも変わっておられない。(本書29ページ)−−鎌倉への最良のガイドブックである。
(西岡昌紀・内科医)