ドリンドリン!と躍動する「物質」
★★★★☆
レーニンを「跳ね続ける唯物論者」と呼びたくなった。跳ね続けるものを掴まえられたからこそ、4月テーゼのようにぶっ飛んだテーゼを引っさげ、結果的には未来(第二次ロシア革命)を手に入れられたのだ。その後いかに現実によって傷つけられ、現実を傷つけた(1000万農民の餓死のような!)としても、である。レーニンがマルクス、ヘーゲルを読み解き、その先にある源流に遡っていく様子は圧巻であった。悲惨なソ連に責任多とするにしても、死せる教条主義を振りかざし、政敵を葬り去ったスターリンと、レーニンの差異は「生命」にあると思う。レーニンの人殺しと、スターリンの人殺しは異質だ。そんなことまで考えた。
はじまりのレーニン、レーニンからはじめること。
★★★★★
この書物の内容は『はじまりのレーニン』というタイトルによく現れていると思う。中沢はレーニンを単に賛美しているわけでもなく、ましてや全ての思想はレーニンにおいて体現されていると主張しているわけでも本質的にはない。むしろ、レーニンを入口にすることで、西欧が数百年にわたって抑圧してきた別の思想の系譜を辿りなおすことができる、ということなのではないだろうか。中沢によれば、レーニンの「唯物論」の中心にある「物質」という概念は、「観念論」とされるヘーゲルの「精神」と極めて似た意味を担っているという。レーニンは常にヘーゲルの論理学を学び続けていたのだ。さらに、中沢は前ソクラテスの自然学者たちの思索とプラトン以後の形而上学との対比にレーニンとヘーゲルを重ねることで、レーニンの「物質」という概念が「自然」の原初的な能産性により配慮していると指摘し、ヘーゲルとの差異を見る。この古代ギリシアの自然学者との対比を経て、さらに中沢はレーニンの思想的背景に、ヘーゲルを超えて、ヘーゲル自身が依拠し(かつ、抑圧し)たヤコブ・ベーメの三位一体論を見る。ここで明らかになるのは、いわゆる「フィリオクエ問題」と呼ばれる東西教会が決定的な形で対立したモーメントである。この神学論争により三位一体論は大きく変容することになった。西欧において三位一体論は「父と子」と「聖霊」の二項の論理へと移し替えられ、そこに「普遍」と「特殊」からなる中世の形式論理学が、そしてその後の西欧の哲学が形成されたと中沢は大胆に論じる(幾分、大胆過ぎるが、看過できない指摘だと思う)。この西欧の伝統に対して、レーニンは、というよりもドイツのベーメを端緒とする思想は、本来の三位一体論を回復する役割を果たしたという。二十世紀におけるヘーゲルの直・間接的な影響を考えれば、独思想における三位一体論の復活が、単に独特殊の問題ではないことは明らかだ。レーニンから「はじめる」ことで、私たちはヨーロッパのもう一つの思想的系譜を辿ることができることを中沢は冴えた筆致で示している。軽快な装いながら、中沢の本の中で最も懐が深いものの一つだと思う。
牽強付会と思い付きで成り立つ著作
★★☆☆☆
一見、学術書の体裁を取っているが、本書は著者の思い付きと牽強付会で満ちている。例えば、「ロシアというものは、実体としては存在しない。それはヨーロッパと当方の境界面に発生する、現象のユニークさをさす言葉だ。」(216頁)。このような訳の分からない断言(論証無し)が多いため、読者は著者の主張からは得ることがほとんど無い。
そもそも著者はレーニンの著作の原典に当たっているふしがない(ロシア語ができないからだろうが。)。これでレーニンにおける「物質」という概念がどういうものだったか、などを論じるのには無理がある。
ただ、いろいろな文献に当たって調べている。情報を紹介していることを評価して、星2つにしたい。
始まりと終わりがよく、途中は駄文
★★☆☆☆
この著作は、始まりの部分でトロツキーの『レーニン』を用い、一番最後でもう一度トロツキーの『レーニン』を用いている。その部分はよい。トロツキーのレーニン回想のみずみずしさ、おもしろさ、洞察力がよくわかる珠玉の文章がいくつか抜書きされているからだ。トロツキーの文章を通じてレーニンの魅力が伝わってくる。
だが、その最初と最後に挟まれた部分、すなわち中沢氏オリジナルの部分はいただけない。正直読み通すのがつらかった。事実関係も間違いが目立つし(あまりちゃんと調べずに書いているのか?)、レーニンの思想についても思い込みがすぎる。ほとんど関係のない二つ(ないし三つ)のものを言葉の魔術で強引に結びつける中沢節がいつものように炸裂しているだけだ。強引な関連づけという点では、むしろドミニク・ノゲーズの『レーニン・ダダ』の方がおもしろい。
とはいえ、レーニン全否定の時代に(今もさして変わっていないが)、あえて挑戦的にレーニンを積極的に評価しようとした姿勢はなかなかよい。レーニンは、どんなひどい欠陥や誤りがあったとしても偉大である。スターリンは、どんな偉大なことをしたとしても下劣である。この違いがわからない者は、歴史についても人間についても何もわからない者だ。
レーニンが好きになる
★★★★★
レーニンはスターリンとともに地に堕ちてもうどれくらいになるのだろうか。当方が意識的に読書を始めたバブルの4〜5年前頃までは、大月文庫にレーニンのものが多数あったはずだが(スターリンのも!)、この10年大型書店でも本当に見かけなくなった。最近、他社の文庫で『帝国主義論』や『国家と革命』が刊行されているが、前者など例のネグリ&ハート絡みのマーケティングでもあろう。幸徳秋水の『帝国主義』も復刊されていたし。
バートランド・ラッセルはレーニンと話してみたら馬鹿だったと言ったらしいが、当方にとっては20世紀最高の知性とはレーニンである。決してラッセルではない(むしろヴィトゲンシュタインか? 当方はバフチンがレーニンに並ぶと考える。因みにスターリンをその言語学的知見において評価したのは、一人我が田中克彦のみであった)。
そこで本書。これは本当に面白い本だ。中沢新一の著書では唯一読むに値する。小谷野敦が唱えている「中沢=オカルト説」にほぼ全面的に賛成するものの、この本のオモロさだけは捨てがたい。このレーニン論にはバタイユやベーメやグノーシスが登場する。アカデミズムでどう評価されるのかは分からないし、際物臭はプンプンしているが誠にユニークなレーニン論、「唯物論」論、そしてマルクス論である。中沢ファンは本書をどう考えているのだろうか?