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現代唯名論の構築―歴史の哲学への応用 (現代哲学への招待)

価格: ¥3,360
カテゴリ: 単行本
ブランド: 春秋社
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【セブン-イレブンで24時間受取りOK・送料0円!】 著者/訳者名:中山康雄/著 出版社名:春秋社 シリーズ名:現代哲学への招待 Japanese Philosophers 発行年月:2009年07月 関連キーワード:ゲンダイ ユイメイロン ノ コウチク レキシ ノ テツガク エノ オウヨウ ゲンダイ テツガク エノ シヨウタイ ジヤパニーズ フイロソフアーズ JAPANESE PHILOSOPHERS げんだい ゆいめいろん の こうちく れきし の てつがく えの おうよう げんだい てつがく えの しようたい じやぱにーず ふいろそふあーず JAPANESE PHILOSOPHERS、 ナカヤマ,ヤスオ なかやま,やすお、 言語使用を軸に、中世の普遍論争も踏まえ、メレオロジーなど最新の手法も駆使して、「世界とは何か」「私とは何か」「一体何が存在するのか」といった哲学の核心を探究。さらに“語り”としての歴史叙述を考察することで、歴史認識の基礎にも新たな光をあてる壮大な思考実験。
唯名論のスリリングな議論 ★★★★★
まとめ
読みやすいです。議論そのものは、簡単なレベルにあるとは余り思わないけど、
著者の意図が常に見える議論の展開となっているので、論の進め方、見通しの良さはこういった本のなかでもずば抜けて良いのではないかと思います。
抽象的な定義も多用しますが、具体例の分かりやすさ、そして、何故その概念を導入したかもわかるようになっていて丁寧です。

テーマも世界と主体ということになっていて、哲学の大テーマの歴史的おさらいも可能なので、哲学好きは絶対損はしないと思う。
本当に読んでいて、面白い哲学書っていうのは少ないけど、これはそういう本です。


以下詳細

第一章 世界と主体 では、世界と主体という、哲学における一大テーマの歴史的変遷を見ていきます。デカルトはどのように世界と主体を関係付けたか?言うまでもなく、「われ思うゆえにわれあり」から主体を定義していきました。次にカントの論を追っていくが、カントも結局はデカルトと同じく心身二元論の問題に突き当たる。
ヘーゲルは主体を絶対精神へと書き換えることによって、これを乗り越えようとしたが、絶対精神がそもそも存在することを前提にしていると、著者は棄却する。
そして西田幾多郎の純粋経験も認識主体の役割をすべて果たしているわけでないと、これを退ける。

この後にヴィトゲンシュタインについても見ていくが、やはりヴィトゲンシュタインの考えもっ否定される。
最後にハイデガーの考え、世界ー内ー存在が示され著者はこれに同意する。
著者は特に、世界内存在の被投性(投企)を高く評価する。

世界内存在ということは、世界のなかに存在が存在するということである。
ということで、著者はここから(?)メレオロジーを展開していく。

第二章 唯名論とメレオロジー
プラトンのイデア論、アリストテレスの個物論、中世における普遍論争(実在論と唯名論の対立)とメレオロジーを導入する上での下準備。
メレオロジーとは、全体は部分の集まりであり、部分が集まれば全体となるような論理のことらしい。
ここからは暫くメレオロジーの各概念の定義と拡張が行われています。定義そのものは抽象的でややわかり辛い部分もあるけど、概念の定義のあとは具体的な例を持ち出して示してくれるので、わかりやすい。
中盤からは、四次元主義と四次元メレオロジーについて述べられています。四次元主義とは極端に簡略化してしまえば、三次元空間+時間で物体や出来事を考え方だと思えば大丈夫(?)。
最後は、道具論。これもメレオロジーの拡張で、道具を使用する人間=人間+道具というメレオロジーの融合体の考え方が使われている。
ただ二章では、四次元についても、道具についても導入段階であって大きく論が展開されていない。

第三章 唯名論的存在論と自然言語の意味論
第二章の続き。名詞に関する考察にメレオロジーの考え方を導入する。
物質名詞や固有名詞、普通名詞ではイマイチメレオロジーを導入するメリットがわからないが、集合名詞を考えるときに、役に立ちそう。本書で言うと、複合的個物の考えや、文章の「集団的読み」と「分配的読み」の部分とか・・・
我々の日常生活において物事を考える際に、唯名論的に階層分けをしていることが、わかりやすく説明されている。
最後に、出来事の存在論を唯名論と四次元メレオロジーを用いて解釈している。ここでは、出来事は物質と個物に近い二種類を持っていることが指摘されている。
ここで、物的な対象だけではなくて、出来事についての語りによって、新しい世界を入れたと言える。

第四章 多元的言語論と物理主義
最初に説明されてはいたが、これまではメレオロジーや唯名論的な立場ばかり主張されていて、多元的言語の立場や物理主義の話しは基本的にはされていなかった。
が、四章では、その立場が語られる。
まず、多元的言語の歴史的過程が示されて、次に唯名論と多元的言語の関係が示される。
著者が言うには、まず多元的言語があったわけではなくて、我々の歴史的発展によって結果的に多元的言語の世界が構築されたという。また多元的言語の使用というものは、唯名論の一つの形であることも示される。

次に物理主義について。これはかなり激しい物理主義である。
存在するものは全て物理的対象であると言い切る。とは言え、現代は科学が溢れる世界、比較的簡単にこの立場は受け入れることが可能。(僕が比較的物理主義者ってことも関係あるだろうが・・・)
物理主義と因果についての記述はキムがすぐに思いつくが、どうやらキムの立場を踏襲しているみたいだ。
著者は、物理的プロセスと因果は、物理的プロセスが先に来るという。
因果は原理ではなくて、私たちの理解や考え方に過ぎないと言う。
犬の前足が上がる。という行為は何らかの原因が考えられるが、それは結局我々がそのようだと考えているに過ぎないと言う。因果は原理ではなくて、説明であると著者は主張する。
そして、多元的言語論の立場をとれば、物理的プロセスと神経系のプロセス両方を受け入れることが可能であり、多くのことを説明できると主張する。

本章の最後は、多元的言語論と指示の問題について書かれているが、ここは多元的言語論のアドバンテージを見せつけてくれる。
科学的実在論、道具主義、操作主義の言語に関する立場と、著者の立場が示される。(著者の立場はこのどれとも違うが、何となく折衷的立場に思われる。)
多元的言語論のアドバンテージが感じられる部分は、日常用語と科学用語が同時に同じことを指すところ。
本書の例(クリプキ『名指しと必然性』?)で言うと、「水はH2Oである」は同じことを違う表現で行っているが、当然多元的言語論の立場からは全く問題にはならない。


第五章 事実の諸相
五章の冒頭にあるように、物理主義者として、まず物理的事実があると宣言する。
しかし、分類していくと、物理的事実、内省的事実、社会的事実の三つの事実があると著者はいう。
ただし、内省的事実と社会的事実は物理的事実から派生する。

ここの議論の多くはウィトゲンシュタインとデイヴィドソンにメレオロジーを足したような内容。
前述の多元的言語論などの議論を踏まえていると、すっきり読むことが可能。

第六章 心の哲学と物理主義
まず、著者は心の哲学における問題といくつかの立場の紹介をする。といっても詳細にではなくザッと。
次に、有力(というか著者がとる立場)である解釈主義について述べられている。
特にデネットの解釈主義とデイヴィドソンの非還元物理主義の具辰が述べられている。
しかし。、ここでチャーチランドの消去主義の問題が出てくる。
消去主義とは、著者の例をそのまま挙げれば、アリストテレス力学が、ニュートン力学に乗り越えられたように、エーテルが存在しなくなったように、科学の進歩によって既存の議論が消去されるという立場である。
この場合の消去主義は、素朴心理学は、脳神経科学によって乗り越えられると言われている。
しかし、著者は神経科学では素朴心理学を乗り越えることはできないという。
神経系のどこを働いているかを確認するためには、被験者の語り(主観)が入り、物理主義的な立場から見ればバラつきが存在するということになる。よって、神経科学が進んでいろいろと貢献するようなことはあっても、素朴心理学そのものはなくならないと著者は主張する。

次にキムの還元的物理主義について、述べられている。まとめるのが困難なのでザックリとばすけれども、要は還元主義的物理主義では説明できないことが、デイヴィドソンの非還元的物理主義では心的因果と物理的因果を説明できる!と言っています。


こんなもんで、第一部 唯名論的世界像 終了。

『現代唯名論の構築』もついに第二部に突入だ。

第七章 歴史叙述の位置づけ。
まず、著者は西洋における「歴史哲学」とは何ぞや?と問う。
まぁ簡単に言うとユダヤ教やキリスト教の持つ、終末論的な歴史的価値観が全面におしだされているものだという。それは始まりがあり、終りがある。
そのもっともな例として、ヘーゲルの絶対精神へ辿り着くための歴史観があげられる。
はじまりがあり、絶対精神という、目的に向かって、歴史はそのまま進歩し続けるだろうと・・・(当然アウシュヴィッツ後これは完全に崩壊したが)。そして、マルクスの歴史観も描かれる。
マルクスはヘーゲルとは違って、絶対精神の発展ではなくて、生産形態の発展でもって歴史を見ていた。しかし、どちらも外部から歴史も傍観している超越論的な歴史観に過ぎない。

次に、ディルタイの解釈学による歴史理解について述べられている。著者は、精神科学と自然科学を切り離すディルタイには当然、物理主義者として反対はするが、ディルタイが考えた、存在は歴史的存在であるという点には同意する。
また解釈学者でハイデガーの弟子であるガダマーの歴史哲学、世界内存在として投げ入れられた存在は、歴史的存在であって、超越論的歴史館を持ち得ないとして批判している。ここに著者は強く同意する。


次にヘンペルの歴史哲学が扱われるが、これはデネットやキムなどの強力な物理主義に近く著者はこれに反対し、デイヴィドソンと同じ