変り者
★★★☆☆
著者の『異邦人』の解釈は理解できなくはないが、深過ぎるような気がする。カミュの意図はやはり既成の物語の拒絶にあったのだと思う。だから主人公ムルソーは母親が死んでも一般的、ありきたりに悲しむようなことはしないし、アラブ人を殺したのも恨み辛みのようなありきたりの動機ではなく、「太陽のせい」にしたのだろう。そしてこの小説が感動できるのは、これはどクールな主人公が突然、予想外で司祭に食ってかかるからなのではないのか。だからこの小説がヌーヴォーロマンの元祖であることは間違いないし、タイトルも『よそもの』よりも敢えて『変り者』とする方が的確だと思う。
不条理ではなくなった「異邦人」
★★★★☆
本書の著者は若者に向って語っているのに違いない。しかしカミュは若者だけの本ではない。かつて「異邦人論争」というのが文芸界で華々しく展開されたがそんなことは歯牙にもかけない。熟慮の末だろうが「異邦人」は新装「よそもの」として再登場した。なぜそうしたかの説明はあるが依然として違和感は消えない。著者は(あるいは出版社は)さらにもう一つ工夫を凝らしている。つまり読者は最初に「よそもの」の新訳の抜粋(冒頭、事件、末尾のそれぞれ一部)を読むことから始めなければならない。
本書の中心をなすものは「20世紀のまんなかに出現したフランス文学史上、画期的な一冊」である「よそもの」論である。読者はそこに漫然と読んだのでは見落としてしまう表裏と深淵があることを教えられる。「よそもの」をめぐってはこれまでも多くの議論が闘わされてきた。批判の最大のものはカミュは聞いたことがない言葉だろうが彼のうちの「オリエンタリズム」に向けられたものといえるだろう。しかし「よそもの」の主題はまったく別のところにある。本書の終りに近く「世界は人間のためにできてはおらず、人間にたいして閉じられている。」という言葉がある。この世界とは文明世界だけではなさそうだ。生まれ育った灼熱のアルジェリアにたいしても、父祖の国フランスにたいしても冷静な観察者でしかいられない孤独な人間像は標題にあるような「きみの友だち」というよりは「きみ自身」と思うべきだろう。
太陽がいっぱい!!
★★★★☆
サルコジとかいう、どこかの国の為政者や都道府県の首長によく似た気質の政治家がいる「おフランス」は病めるヨーロッパの象徴であろう。最近の郊外暴動と若年雇用制度を巡る学生たちのデモ、そしてサッカーワールドカップにおける英雄の頭突き事件はどこか通じている。カミュはその発言によって晩年「右翼」と目され、論者によってその評価はまちまちだ。
しかし『異邦人』ムルソーはしぶとく21世紀にまで生きていることを本書で再確認した。野崎氏は『よそもの』とタイトルを新たにし、この伝説的な「ロマン」の背景を辿りなおす解説を付している。ここで問題となるのは、ムルソーは決して無軌道なチンピラではなくある意味で倫理的な基準をもった人間だということだ。「太陽のせい」というアラブ人殺害の理由は、何かの「サイン」や「啓示」ではない。倫理が所詮相対的もので、行為が偶然に支配されているとするなら、人間には何事も起こりうる。しかし、それほどおぞましいことはない、ということが神とは何か、信仰とは何かという問いを抱かせるのだ。本書によって、アウトサイダーとはロマンティックな「サイン」であることをやめる。出来れば『よそもの』全訳を読みたい。