この本に登場する右翼の方達の思想や人となりを知って青春時代を思い出した
★★★★★
題名に誘われてこの本を読んだ。議論すると左翼に負けてしまう傾向にある右翼なので、それに打ち勝つために理論武装をしなければならない、というようなことが書いてあるのではないかと思っていた。作者の本は「愛国者は信用できるか」を読んだことがあり、こういう右翼もいるのかと印象深かったことを覚えている。
私の期待に対する答えは読み始めてすぐにこのように書かれていた。「左翼におけるマルクス主義のような体系的な理論があるわけではない。論理よりも多分に心情的な要素が強い。あえていえば情緒的で詩的な言葉を尊ぶ。このあたりにも右翼が言論とみられにくい要因があるのかもしれない。」
しかしこの本は、そういう理論武装のようなことはあまり言っていない。戦前戦後を通じての右翼活動を行ってきた人達の考えや行動や人となりを紹介し、それに対して作者の意見を述べる、という形を取っている。かねてより名前の知れている右翼活動家も居たが、初めて聞く方も居られた。そういう方に対する作者による紹介を読むと、その人となりと論理の確かさに感心し、学生時代にこう言う人に出会ったらどうだったか、私も著者のような生き方をする要素は十分にあっただろう、と思ったりした。それに踏み出さなかった理由は、理科系だったので勉強が忙しかったこと、所属していた柔道部に時間をとられて他を省みる余裕が無かったこと、生活に困らない恵まれた自由な生活をしていたこと、などにあるのではないかと思う。一方で、先輩の話す、皇国史観に影響を受け、そういう本は沢山読んでいた。その時に、野村秋介や、その他の著名な右翼思想家の講演や直接会って人柄に触れたりしたら、私の人生も変ったかもしれない。
この本は、そういう青春時代をも思い起こさせてくれるような内容だった。
鈴木邦男の精神史
★★★★☆
右翼とは言いながら「テロより言論」「愛国心は押し付けてはならない」「左翼と共闘」という姿勢を貫く著者。愛国者は信用できるか (講談社現代新書)ではその主張に共感を得たが、武闘派であった著者がなぜそこまで心変わりしたのかは、あまり詳細に語られていなかった。しかし、本書では、右翼の歴史と関係人物の思想から学んだことや、過去様々な大物右翼から個人的親友までとの交流による体験から、いかにしてそれらが血肉となり吸収され、現在の著者の立ち位置を形つくったかが示されている。そういう意味では、「右翼は言論の敵か」というタイトルより、著者の精神史の著作といえる仕上がりだ。
右翼と左翼は、全くの正反対的主張が続いてきたのか、そうではない。特に戦前の右翼思想は、左翼と相通じる部分があった。貧富の拡大からくる「資本主義批判」、一君万民を理想として推し進める「天皇アナキズム」など、「反共」「親米」の枠にほぼ収まった戦後右翼と真逆だ。もちろん過激なテロが時に横行した事実があるにせよ、こういった思想を「反貧困と右翼思想」とうまいタイトルでまとめている。とそれは同時に、「新右翼」という戦後右翼からの脱却を目指す著者なりの強い愛国心の発露でもある。私もその視点は共感できる。また「運動の延長として暴力も必要と思っているのに、それに慣れると、暴力の行使そのものが楽しくなってくる」や運動のための金集めが、金集めのための運動に逆転するときがあるといった本音を言えるのは、著者ならではと言えるし、なんとなく活動の実態が見えてきて興味深い。
著者にはこれからも多様な角度から、右翼の歴史と人物を取り上げて論じてもらいたい。それは頭ごなしに否定されないための右翼の生き残る道でもあり、思想界全体を活性化させるものであるからだ。
右翼の歴史の本
★★★★☆
タイトルからして、右翼と言論にスポットが当てられるのかと思いきや、本の中盤は右翼思想家の話ばかりになる。
自分は右翼の歴史の本を読んでいるのか、右翼と言論の話を読んでいるのか分からなくなった。
どうして右翼の思想家の話になっているのか、よく分からずに読み進めていた。
あとがきを見て納得できた。
途中で出版社に「影響を受けた右翼思想家についても書いてください」と言われて書き足したらしい。
ならば本のタイトルも路線変更をすれば良かったのではないだろうか、と思う。
しかし、右翼が戦後どのように歩んできたのかを知る上では良書であることは間違いないと思う。
20代半ばの人間なので戦後まもなくの頃の右翼の活動はなかなか知る機会は少ない。
また右翼の思想がメインであるが、右翼との比較のために左翼の思想も出てくる。
右翼から側のみではあるが、戦後思想全体を眺めることができた。
言論によって戦う右翼を目指して
★★★★★
「暴力」や「テロ」ではなく「言論」によって主張する右翼のあり方を模索した本といえようか。著者自身の体験談を豊富に交えながら、いくつかの事件、右翼思想家について論じている。
まずは数寄屋橋の風物詩だった赤尾敏。街宣車の発明者なのだそうだ。戦後の右翼は戦前の「鬼畜米英」はどこへやら、手のひらを返したように「親米」になってしまったが、これは赤尾を見習ったものらしい。ただし赤尾は戦前から「親米」で、対米戦争に反対して東条英機を批判していたというからすごい。さらに驚くのは、昭和天皇には戦争責任ありという立場だったのだそうだ。
テロリスト山口二矢は著者と同年齢。三島由紀夫と共に死んだ森田必勝は著者の後輩だった。どちらの事件も著者に大きな衝撃を与え、反省を促している。特に三島と森田の死は、新左翼・新右翼双方に焦りを生んだという。
このあとは白井為雄、中村武彦、片岡駿、毛呂清輝、影山正治、葦津珍彦、里美岸雄、権藤成卿、橘孝三郎らの思想を、著作から適宜引用しつつ紹介している。彼らにとって「右翼」とは手段でしかなく、単により良い生活・社会を目指して発言し、活動したに過ぎなかった。そこにはもはや右翼も左翼もない――著者はこんなふうに考えているように見える。
そして最後に野村秋介。言葉を大切にした人として語られているのが印象的である:
「野村に叱られた。「絶対阻止」とか「死守」とかいうんだから「命を賭けるんだな?」という。「できなかったら死ぬんだな?」「じゃ、死んでみろよ」という。言いがかりだ、と思った。でも、口には出せない。「いや、これは我々の意志を強調するスローガンですから」と言い訳して、さらに叱られた。「そんなふうにいいかげんに言葉を使っちゃダメだ」という。確かにその通りで、僕らはグゥの音も出なかった。」
野村は帯に大きく「遺書」と書かれた最後の著書『さらば群青』を残して自害する。著者は不覚にも、それを予想だにしなかった・・・。
なかなか良い本だと思う。
まだ右翼だったんですか
★★★★☆
まだ 右翼だったんですか 転向はみっともないですが 信じていない看板を掲げるのは さらに惨めですよ
それをのぞけば 戦後右翼史の断片ということで 看板に偽りありみたいですが それはいいかなと思います