『オプス・ポストゥムム』の再評価へ向けて
★★★★☆
待望の邦訳である(表紙は岡崎乾二郎)。
重要なのは7章の「源泉・領域・限界」の『論理学』と『オプス・ポストゥムム』(遺稿、遺作)に触れた箇所だろう。
『論理学』では文法上の「主語」「述語」「繋辞」(96頁)がそれぞれ、
『オプス・ポストゥムム』の「源泉・領域・限界」、つまり「神」「世界」「人間」(94頁)に対応し、
さらに『第一批判』の「理性」「知性」「感性」(106頁)、
全体系では「純粋理性」「実践理性」「判断力」(106頁)に対応する、という指摘は参考になった。
(三幅対を強調すれば以下の図のようになるだろう)
神 _________ 世界 遺稿
(源泉)|\ /|(領域)
| \人 間 学/ |
主語|__\ /__|述語 論理学
|\ \人間 /|
| \ (限界)/ |
理性|__\ | /__|知性 能力
|\ \繋辞 /|
純粋 | \ | / |実践
理性批判|__\_|_/__|理性批判 批判書(↑レベル)
\ \感性 /
\ | /
\ | /
\判断力批判
あるいは、
能力 |批判書 | 論理学| 遺稿
____|____|____|_____
| | |
理性 |純粋理性| 主語 | 神 ←ア・プリオリ?
| | |(源泉)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
| | |
知性 |実践理性| 述語 | 世界
| | |(領域)
| | |
感性 |判断力 | 繋辞 | 人間
| | |(限界)
特に『オプス・ポストゥムム』を人間とは何かという問いの中で重視する視点は、未だに先駆的であろう。
ただ、フーコーが最後にニーチェを持って来たのは唐突すぎる。ニーチェはライプニッツとスピノザを経由してはじめて歴史的に出現するのだから、カントから直接は出て来ないはずだ(『オプス・ポストゥムム』は何よりもスピノザ再評価の書である)。
ちなみにカントのカテゴリーの4分割を重視し全体系を図示すると以下のようになるだろう。
(形而上学の位置付けは上下逆になるかも知れないが、人間学を全体系の末尾におくのはフーコーの見解とそう違わないと思う。)
__________________________________
/| /| (認識) /|
/ | 人 / | / |
/ | / | / |
/___|____________間___|____________/ |
/| | /| | (快、不快) /| |
/ | | / | | 学 / | |
/ (欲求) | / (性格学)| / | |
/___|___|________/___|___|________/ | |
オ| | | | | | | | |
|永 | | | | | | | |論
プ|遠 | | | | | | | |
|平 | |_______|____|___|_______|____|___|理
ス|和 | /| | | /| | | /|
|の | / | 自 然| の |形/ |而 上 |学 | / |学
・|た |/ | | |/ | | |/ |
|め |___|_______|____|___|_______|____| |
ポ|に /| | (徳|論) /| | | /| |
| / |人 倫|の | / |理性の限界内における | / | |
ス| /(法学) |形 而 上 学| /宗教(目的論) | / | |
|/___|___|_______|/___|___|_______|/ | |
ト| | | | | | | | |
| | | | | | | | |
ゥ| | |_______|____|___|_______|____|___|
| | / | | / (数学)| | /
ム| | / 純 粋 | 理 |性/ 批 判 | | /
| |/ | |/ (物理学) | |/
ム| |___________|____|___________|____/
| / (倫理|学) / (美|学) /
| / 実 践 理 性 批 判 | / 判 断 力 批 判 | /
| / | /(目的論) | /
|/_______________|/_______________|/
フーコーの哲学入門でもあり、哲学することへの入門でもある
★★★★★
フーコーの学位論文(「狂気の歴史」)の副論文として夙に有名だが読んだ人は少ないようで、過去の解説書の中には、本書がカントの「人間学」を批判しているという、全く反対の紹介をしていたものがあった。「人間の消滅」で有名な著者だけに、本書を読まねば、そういったまことしやかな話も出るのだろう。本書を一読すると、話は全く逆なのだということがはっきりする。「わたしは花火師です」という本で、著者にとって哲学することは、カントのように考えることだ、と言っているように思えたが、本書はまぎれもなくそのことを示していると思う。カントの「人間学」は、さながら著者の描く歴史的世界、「狂気の歴史」「臨床医学の誕生」「監獄の誕生」のように、ひたすら経験の世界の交互作用や「きまり」をひらたく叙述して繰り広げる。「人間学」は「経験の条件」に就いて考察する「純粋理性批判」と触れ合うことはなく、常に周縁的なものにとどまるが、しかし、「批判」の運動は「人間学」の構造から結果的に浮かび上がってくる。「人間学」を描くことで、外側から「批判」の運動を描きだすのだという。このことは、或る経験的な世界のなかから「方法論」や「真理」を導出したり、超越論的な方法論を経験的な地平に「適用」してしまう「混乱=旧来の哲学」とは全く異なる。そうではなく「批判」と「人間学」は離れているのだが、両者は別個に展開されれつつ、結果としてその反対物のなかに現れ、或いは根拠づけられる。それは、「思考する」とはどういうことかを示唆してくれているように思える。翻訳は丁寧で著者独特の調子が見事に息づいていると思うし、巻末の解説や脚注は理解を大きく助けてくれる。だがしかし、「人間学」と「批判」の関係を語るところは、「哲学の思考」とは何かを告げる核心部分だが、決して明快ではなく、きわどくもぎりぎりのところで、核心に近づいてはまた離れていくようだ。そんな微妙で瞬間的な一回限りの本物の思考とは「何か」を語ること自体、そもそも無理なのかもしれないが、そこに大いに迫っていると思う。本書を通読すると、たしかに後期フッサールからシェーラーやハイデガーの思考は、どこか確かでない方向に曲がって行ったと思えてくる。ベルクソンもメルロ=ポンティもしかりだと思う。彼らに対する相応に辛辣な著者の評価がわかるような気がする。本書の展開を「言葉と物」や上記の主著のなかで、フーコーは実践して見せてくれたわけだが、そういう意味で本書は「フーコー入門」だし「哲学入門」だと思う。それにしても著者のような本当の哲学者になると「影響」ということは用心しなくてはならない、と思える。私見では、ハイデガーの影響はむしろ希薄で、ハイデガーの意図することを非常に我身のごとく理解しながら、全く別物でだったのが著者だ、と思った。