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倫理という力 (講談社現代新書)

価格: ¥735
カテゴリ: 新書
ブランド: 講談社
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思弁的すぎる内容 ★☆☆☆☆
 第三章は、躾、感化、道徳教育についての話だが、思弁的すぎて分かりにくかった。第四章、第五章、第六章も大変分かりにくかった。第一章と第二章は多少読みやすいように思えた。以下は第一章と第二章の感想である。
 本来の道徳は共同体に分化された善悪の問題を扱う道徳とは違う根本的な力であるというのが本書の基本にある。
 つまり本来的道徳は、共同体を維持するためとか、最大多数の最大幸福のためにある道徳と区別される。この「倫理の原液」こそ根本的力として人間に流れ込んでいく道徳の「根」である。著者はそう言う。
 道徳は何かの目的に使われるような後から意味づけされるものではない。むしろ人間ないし人間を成立させている共同体を成立させている条件である。この<潜在的道徳>(20頁)ともいうべき力は相対的道徳を成立させている「人間の生存の根っこ」(43頁)なのである。38頁あたりでは、この倫理の原液を吸い上げている人間の「対話性」を示して他の動物との決定的差異を主張している。この辺りは大変小気味よい。進化論的倫理学、功利主義、分析的倫理学の研究者の歪んだ顔が目に浮かんでくる。
 本書では、第二章で、珍しく(昨今の風潮に反して)「人権」についてその大切さを強調している。人間を目的自体としたカントの思想が人権思想とともに分かりやすく述べられている。
 ああ〜やはりそうなんだ。ヒューマニズムや人権思想はやっぱり大切なんだと安心した気持ちになってくる。本書はそうした一冊である。「『理性的存在社』としての人間が、それ自身を目的とするような価値をもつから」(51頁)という言葉が胸をうつ。
 しかし、だからと言って私たちは生命倫理、環境倫理、情報倫理、企業倫理、技術倫理などの相対的倫理(喧々諤々の)について語らなくてよいということにはならない。どんなに困難であろうと、屁理屈に終始しようと、「潜在的道徳」を見据えて個々の社会的問題についてその方向を示していかなくてはならない。そう思った。2009、11,18
生きるための倫理 ★★★★★
著者の叙述のスタイルが好きだ。
リズムがあって平易で、でも単調にならず、鑿で木を削って彫刻していくように切り口は鋭利なのだが結果そこから表れるものは仏像の笑みのように優しい。
そんな文章は好みがわかれるだろうが、気に入っている。
大工が一本ずつ鉋で削り木を組んでいくように、左官が少しずつ混ぜた土を重ねていくように、セザンヌが一人の男を描くために一色ずつ重ねていくように、自然にたいして精神を開き、真摯に対峙することが、即ち倫理なのだ。
著者の筆は丁寧に倫理の産まれる始原へ、旅を続ける。
倫理学の本の多くは、究極的な状況を想定して「さああなたならどうする?」とケーススタディを強いる。「重度の障害をもった子を、あなたは産みますか?」「国家は死刑をする権利がありますか?」、、、
本書はそんな問いかけとは無縁の、倫理の本である。
倫理はあなたの真横にある。あなたが魚を三枚におろすとき、あなたが木に釘を打とうとしたとき、すでに倫理は芽生え、あなたは十分に倫理的である。はるかかなたのケーススタディではなく、倫理は生きることのなかに、縦横にちらばっている。
生きるための倫理の本。
本当に大事なことが書いてある ★★★★★
 テンポのよい軽快な文体のため、半日もあれば簡単に読了できてしまう。しかし内容は決して簡単ではない。分かりやすく書かれているその内容には、非常に深いものがある。だから私はすでにこの本を10回くらい読んでいる。読むたびに新しい発見がある。
 倫理、道徳について難しい議論をしてみたところで、それを聞いた人の道徳感が向上するわけではないし、生命倫理とか環境倫理の問題が解決するわけでもない。答えはそんな議論の中には最初からないのだ。私もそういう議論に関わってきた人間の一人として、それにはうすうす気付いていた。そしてこの本に出会ったことで、議論の仕方を変えることができた。道徳は自然の中に根拠をもっている。だから私たちがやるべきことは、倫理の問題を議論によって解くのではなく、答えはすでに自然が教えてくれているのだから、ただその答えに導くような理論を展開していけばよいのである。そして日々の生活の中で、倫理という力を根底に宿した<技術>を磨いていけばよいのである。
 新装版の帯によると、この本は「人間の根本を語って静かなブーム」になっているらしい。こういう本が読まれているなら、日本の未来にも少し希望があると思った。
道徳は信仰や愛とおなじように伝わっていく ★★★★☆
ひと昔まえに,あるテレビ番組で,茶髪顔黒の少女たちが,親方について,さまざまな職業に挑戦するというコーナーがあった。風呂屋,内装工事,パン職人・・・・・・。彼女たちはぶつくさ言いながらも,きっと最後にはうれしそうで,いい顔して微笑んでいた。多分,生まれてはじめて,ほんとうの教育に,また道徳に触れたのではないかと思う。

本書の著者は,道徳は人格から人格へと,言外に伝わっていくものだという。だから道徳教育の前提は,道徳的な一人格の存在である。不道徳な大人が何を言っても無駄なのである。ないものは伝わりようがない。

道徳は,社会システムの必要や功利的な計算から生まれるものではない。もっと根は深く,存在そのもの,すべての存在物の一なる根源と触れ合うところから生じる。人によってはそれを神というだろう。著者は「倫理の原液」という呼び方をする。呼び名は何でもよい。そうした根源に触れて,みずからがあからさまに照らし出され,自我が打たれる。こうした体験を基点として陶冶された人格こそが,道徳を伝える媒体となりうるのだ。

風呂屋であれ,トンカツ屋であれ,武道家であれ,一つの道に精進している人ならば,その過程で多かれ少なかれ自我というこだわりをこわされている。だからかれらは,そうと意識しないままに道徳の媒体となっている。人格から人格へと,打ち砕かれた人,道に殉じる人を媒体にして伝わっていく,著者の考える道徳は,愛や信仰に似ている。

道徳問題や教育問題について考え,みずからの人格を陶冶したいと思う人には,一読をおすすめできる好著だと思う。

世界を肯定する倫理の力 ★★★★★
少し前に『世界を肯定する哲学』という題名の本を読んで生きる気力をなくしていたのだが、この本のおかげですっかり回復することができた。この本にこそ先のタイトルを掲げてみたい気がする。

 「倫理の原液」を取り戻すにはどうすべきか、「自然」や「物」のもつ知恵から直接学ぶにはどうしたらいいのか、というのが著者の問いである。このような著者の問い方は、つまらない理屈に慣らされた者には不完全な論理にしか映らないかもしれない。たとえば著者はこう言う。「私たちの社会で、殺人を禁じているものは、法律でも国家でも、また社会そのものでさえない。この社会を、そうしたさまざまな禁止によって生んでいる何かである」。このような叡智の存在に感覚的に手応えを感じない者には、この本は何も伝えらないおそれがある。あるいはまた、集団に与する本能と個体に与する知性の間の矛盾から道徳は生まれたとし、結論として「人は、ただ端的に道徳を守りたいのである」という地点の存在を著者は指し示す。飽食に慣れた本能や、肥大した知性が邪魔をしてしまう者には、これはつまらない独り言にしか聞こえないのではないだろうか。

 しかし言うまでもなく、「なぜ人を殺してはいけないのか?」などと理屈を振り回す子供たちと、それに対して予定調和のような理屈を提示する大人たちの間には、何も起こらない。そんな八方ふさがりの地点から、見晴しのいい高い場所に登るための道をいくつも用意した著者は、まさしく「世界を肯定」する努力に満ちている。「理屈」が優先する時代の誘惑に負けて「欲望の自動機械」に成り下がる前に、著者の崇高な態度に「感化」されたいと感じたのは私だけではないだろう。