本書の著者は,道徳は人格から人格へと,言外に伝わっていくものだという。だから道徳教育の前提は,道徳的な一人格の存在である。不道徳な大人が何を言っても無駄なのである。ないものは伝わりようがない。
道徳は,社会システムの必要や功利的な計算から生まれるものではない。もっと根は深く,存在そのもの,すべての存在物の一なる根源と触れ合うところから生じる。人によってはそれを神というだろう。著者は「倫理の原液」という呼び方をする。呼び名は何でもよい。そうした根源に触れて,みずからがあからさまに照らし出され,自我が打たれる。こうした体験を基点として陶冶された人格こそが,道徳を伝える媒体となりうるのだ。
風呂屋であれ,トンカツ屋であれ,武道家であれ,一つの道に精進している人ならば,その過程で多かれ少なかれ自我というこだわりをこわされている。だからかれらは,そうと意識しないままに道徳の媒体となっている。人格から人格へと,打ち砕かれた人,道に殉じる人を媒体にして伝わっていく,著者の考える道徳は,愛や信仰に似ている。
道徳問題や教育問題について考え,みずからの人格を陶冶したいと思う人には,一読をおすすめできる好著だと思う。
「倫理の原液」を取り戻すにはどうすべきか、「自然」や「物」のもつ知恵から直接学ぶにはどうしたらいいのか、というのが著者の問いである。このような著者の問い方は、つまらない理屈に慣らされた者には不完全な論理にしか映らないかもしれない。たとえば著者はこう言う。「私たちの社会で、殺人を禁じているものは、法律でも国家でも、また社会そのものでさえない。この社会を、そうしたさまざまな禁止によって生んでいる何かである」。このような叡智の存在に感覚的に手応えを感じない者には、この本は何も伝えらないおそれがある。あるいはまた、集団に与する本能と個体に与する知性の間の矛盾から道徳は生まれたとし、結論として「人は、ただ端的に道徳を守りたいのである」という地点の存在を著者は指し示す。飽食に慣れた本能や、肥大した知性が邪魔をしてしまう者には、これはつまらない独り言にしか聞こえないのではないだろうか。
しかし言うまでもなく、「なぜ人を殺してはいけないのか?」などと理屈を振り回す子供たちと、それに対して予定調和のような理屈を提示する大人たちの間には、何も起こらない。そんな八方ふさがりの地点から、見晴しのいい高い場所に登るための道をいくつも用意した著者は、まさしく「世界を肯定」する努力に満ちている。「理屈」が優先する時代の誘惑に負けて「欲望の自動機械」に成り下がる前に、著者の崇高な態度に「感化」されたいと感じたのは私だけではないだろう。