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私の日本語雑記

価格: ¥2,100
カテゴリ: 単行本
ブランド: 岩波書店
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やれやれ ★★★★★
中井先生の本の初レビューをこんな形で(っていうのは読みもしないで)書こうとは思いませんでした。言語学者ではないが、語学の達人で(神田橋先生の著書によれば中井先生はいい洋書の外国語には色が見えるそうで、みすず書房から出てる訳本だけでも3ヶ国語)細心の日本語の使い手(統合失調症患者には生半可な言葉は入って行きません)による日本語雑記、悪かろうはずがありません。タイトルにさえ謙譲と含羞の美学が。論文も含め、私が読んだ中井先生の文章で唯一心が動かされなかったのは「治療の聲」に掲載された安克昌先生への追悼文だけです。
「叫び声」は「言語の初め」? ★☆☆☆☆
読了していない。そのうえでのレビューはルール違反であることは重々承知している。しかしそのうえで下記の点だけは指摘しておかなければならないだろう。
読んだ章を読んだ順で記せば。「16 言語と文字の起源について」「1 間投詞から始める」となる。その限りにおいていくつかの誤謬が散見する。
そのなかの2点だけあげる。
「言語の初めは男女の間の睦言あるいは性的な叫び声であろう。」
「言語は近距離間のコミュニケーションである。」
誤謬ではないという人もいるかもしれないが、科学的にはあまりに不正確であることは否めない。
(1)言語(機能or能力)。(2)しゃべり(機能or能力)。(3)コミュニケーション(機能or能力)。
これらを、同系列機能群としてあつかうことは、科学的にもう認められることではない。
それぞれの機能はそれぞれ別個の起源をもって進化してきたものでたがいに分散し併存・並立する能力とみなされている。すくなくとも(1)→(2)→(3)と進化してきたというような系統発生的な直列関係にはない。
細かいことでいえば(言語にとって決して細かいことではないのだが)、「叫び声」と「話し声」は、前者は「言語」とは無関係であり、後者は「言語」機能と構音機能の連携したものであることを指摘しておきたい。この点でも「叫び声」を「言語の初め」とするのはあまりに文学的であろう。
いかに文学的で随想的な「雑記」とはいえ、そのあたりの科学的な因果関係を逆転して取り違えたりすることや、個別の独立した諸機能・諸器官を同一視あるいは同質視することによって、生物学的な事実と事実関係をゆがめてはならないと思うがどうだろう。
「日本語には対話構造が埋設されている」 ★★★★★
 なんと全18章の始まりは間投詞の「あのー」から。《講演の「あのー」は割り込みではない。二つの言葉の間で迷ったり、次に語るべきことは何かと記憶を呼び覚ましたりするための小休止である》(p.5)というあたりから始まるのには驚きました。《対話性を秘めている日本語の文章には第三の聴き手がいて、本当の対話相手は目に見えない、いわば「世間」のようなものではないかと思えてくる。「ではなかろうか」「というわけである」「なのである」などと言うのは世間というアンパイアの賛成を得ようとしてのことではないだろうか》(p.33)というところまで考察が進みます。

 2章の「センテンスを終える難しさ」で、ブラジル人の女性医師が語ったという《ある主張をしながら表情をみていて、相手の表情から「あ、まずい、相手の見解は反対だ。機嫌を損ねてしまうだけに終わる」と判断すると、最後のところで「…というようなことはありません」とか「とは思ってもみませんが」とひっくり返せばよい》(p.17)という日本語の便利さは目ウロコですね。

 日本語は動詞に動詞を重ねてゆくことができるというポーランドの言語学者の寄稿の紹介も初めて知りました。専門家にとっては常識なのかもしれませんが《日本語は、本来品詞の区別のない中国語の語彙に、「てにをは」の格助詞を付けて名詞として、「す(する)」を付けて動詞として、「たり」「なり(だ)」をつけて形容(動)詞としてそれぞれ機能させ、小辞は「すなわち」「それ」などと読み替え、既存の文法的小道具を採用して、この大孤立語をまんまと膠着語に変えてしまった》(p.92-)あたりも、なるほどな、と。