「熊襲」イメージへの批判
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1935年生まれの古代隼人研究者が、現地踏査や諸学の成果を駆使し、東アジア史の中に隼人を位置付け、2001年に刊行したこれまでの研究の集約。まず古墳の分布からは、大和朝廷と関連の深い大隅半島(日向を介して近習隼人を輩出)、在地的性格の強い古墳を持つ薩摩北西部(肥後の影響下)、海洋交易中心の古墳空白地域である鹿児島湾沿岸部(贈於君支配領)という三地域が区分されうる。大和朝廷が本格的にこれらの「化外民」地域に関心を示し始めたのは7世紀、東アジア情勢の激変と天武朝の中央集権政策を契機としてであり、朝貢強制(後、六年相替に)や畿内の交通の要地への移配(集団移住)が実行された。こうした隼人支配の出先機関が大宰府であり、「大君の遠の朝廷」として懲罰権・人事権をも行使した。8世紀初頭、朝廷は現地の抵抗を押し切って日向国から薩摩・大隅二国を分立させ、現地勢力を分断しつつ隣国からの移民を入植させ(その際、神の習合も行われる)、隼人に重い負担を課した。類似の施策は蝦夷に対しても採られ、720年には陸奥・大隅で蜂起が生じ、多くの犠牲を出して鎮圧された。しかし薩摩・大隅は火山灰のため地質的に稲作に不適で、班田は遅れ、隣国の支援により初めて財政をもたせる有様であった。9世紀初頭、班田の実施と朝貢の停止により、隼人は初めて公民として公認された。他方畿内に移住した隼人は隼人司に属し、竹細工製作、服属儀礼、吠声による天皇の呪術的守護等を担当したが、やはり9世紀以来南九州との関係の希薄化によって存在意義を低下させた。薩摩・大隅は南島交易や遣唐使の航路としても活用された。著者は本書で以上のような内容を、多面的かつ実証的に論じている。研究が手薄であった「化外民」地域の歴史を、従来のイメージを修正しつつ、平易かつ総合的に論じた本書は、非常に興味深い本である。