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デカルト的省察 (岩波文庫)

価格: ¥987
カテゴリ: 文庫
ブランド: 岩波書店
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約束されたプログラム ★★★★☆
 1929年パリにあるソルボンヌ大学デカルト記念講堂での講演が基になっている。講演の題目は『超越論的現象学入門』だったが、この書物の副題は、単に『現象学入門』となっている。
 この書物の目的は、第64節「結語」で簡潔に述べられている。目的は、「絶対的な基礎づけに基づく普遍的な学としての哲学、というデカルト的な理念の具体的な可能性を示すこと」である。その理念の可能性は、周知の馴染み深いデカルト的歩みに沿って(批判的にではあるが)示されるので、確かに「分かり易い」。可能性は、方法としての現象学が「絶対的な基礎づけ」をもたらすものなのだという「立証」によって示される。
 
 「分かり易い」と、括弧を付けたのは、次から次へと示される現象学的成果に目の眩むような気がするからである。それらの諸成果は、氷山の一角とでも形容すべきもので、その背後には膨大な、飽くことのないフッサールの思考がある。逆に言えば、この書物を本当に理解するには、一つ一つの「成果」に至る道程を、読者が読む手を止めて、自ら辿ってみる必要がある。そのようなことは、少なくても私にとっては、不可能だ。そのような意味で、この書物は、実に難解だ。
 ハイデガーが、『ブリタニカ草稿』に関連してフッサールに書き送っている。もっと大きな諸著作を刊行すべきだと述べ、1番目の理由として、「読者が具体的な研究を目にすることができるように、そして、そうした研究を、約束されたプログラムとして探すという無駄をすることにならないようにです」と記している。このハイデガーのアドヴァイスは、そのまま「約束されたプログラム」であるこの書物にも当て嵌まる、と私は思う。
 
 最後に、フッサールの哲学を前期、中期、後期と分けて捉えることついて、少し述べておきたい。この書物は、デカルトの「ego cogito」から出発する。従って、その道程は独我論から、他者へという道程にならざるを得ないが、それが、後期になってフッサールは、間主観性へと、生活世界へと哲学的方向転換をしたのだという主張を裏付けてしまうようなところがある。しかし、私は、フッサールが前期に当たる1911年に公表した『厳密な学としての哲学』で、「諸々の自然科学はわれわれに対して活動的な現実性-そのなかでわれわれは生活し活動し存在している-の謎のほんの唯一の点だけでも解明してはくれなかったのだ」と述べる時、生活世界の問題を既に鋭く意識していたこと、また、「哲学者にとっては・・・共同精神の発見が有意義なのだ・・・(それは)・・・一層根源的なそれゆえに一層基礎的な探求の材料を提供する」と述べる時、間主観性の問題を既に鋭く意識していたことを、思わざるを得ない。
現象学の入門に最適です。 ★★★★★
現象学の創始者が書いた現象学の入門書です。
(ただし、実際フッサールが現象学の入門書として意識したかは知りません。)
現象学のポイントとなる判断停止や現象学的還元といった用語が
簡潔に説明されています。

現象学に入門するためにはフッサールの本をいきなり読み始めるのは大変と
何かの本で読み、それを真に受けて、現象学入門の本をいろいろと読んできました。
しかし、それら入門書は判断停止、現象学的還元という用語の説明を
丁寧にしようとするあまり、まわりくどくなっていて、
実際のところそれらを理解することはできませんでした。

これらに比べると、
多少読みづらいところはあるものの、
判断停止、現象学的還元を「括弧に入れた」まま導入する
フッサールの原典の方が読みやすく、理解が容易なようです。

これとデカルトの『方法序説』とをあわせて読むと、
現象学の理解が深まると思われます。
現象学の寿命 ★★★★☆
デカルトの方法においては、「我思う」という思考そのものが「我あり」を必当然的にもたらすという確実性の強みがある(フッサールはこの点はしっかり認めている)。しかしデカルトはその後意識の経緯を追いながら明証性を追うことなく、数学の確実性を以って代替する方向へ転換している(つまり「我思う」から導かれる「我あり」ではなく、単に実在する自分を前提にその上に立脚する数理の確実性に一気に進んでしまう、ということ)。これを飛躍として受け止めるフッサールは、あくまでも意識そのものに注視することで明証性を求める(意識への現れ以外外から持ち込まない、ということ)。この時注目されるのは、意識をあくまでもその機能面に注視して明証性を求めようとする態度だと思う。さらに本書では間主観性が敢えて主題的に扱われた点で学説史的な評価があるとのこと。だが、現象学の方法で果たして明証性・厳密な学とやらが可能なのか。意識に問う、という姿勢を一貫させることが本当に可能なのだろうか。論点先取りがどうしても途中で派生してこないだろうか。事実、間主観性の問題はその片鱗を示す。「生活世界」の概念の登場は次の著書「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」で登場するが、そこまでくると「明証性」の概念そのものが変形してきていないだろうか。後代の「現象学的社会学」が示している通り、それは最早フッサールの当初の「明証性」を求めた「厳密な学」の態度とは似ても似つかない単なる無方法の「叙述」とさえ言いたくなる代物だ。だが翻って考えるに、この方法の目的は、まさに「省察」にあって、「学」の王道的方法などではなく、自身の歩みを「補正」するための補助手段なのかもしれない。とはいえ「判断中止」が方法論上の要となると、やはり都合が良すぎる方法論だと思う。
デカルトの注釈かつ超越 ★★★★☆
「「私」が考えている」ことは間違いないとしても、そこから実体的な「私」が存在するということは必ずしも帰結しない。デカルトの「我思う⇒我在り」の推論には飛躍があり、欠落した部分を補足しなくてはならないとフッサールは考えます。そこで、フッサールは、最も原初的な「(考えるという作用が現れる)意識の生」の精密な分析を進めることで「我」の意味を解明して、それと相関する対象世界の緻密な構成を進めることで、デカルトの限界を超えて、デカルトが求めた確実な知の基盤を再構築しようとします。

しかし、「考える我」だけでは、やはり限界があるのでしょう。そこから、フッサールは最晩年の著作「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」で生活世界に決定的な意義を認めることになります。

本書は、フッサールの中期の主著「イデーンⅠ」と最晩年の主著「ヨーロッパ諸学の危機と超越論現象学」の間を埋める大変貴重な資料と言えます。しかも、二つの著作よりずっと読みやすい。イデーンを読んだがさっぱり分からなかったという読者は、本書を読んでから、再挑戦されることをお勧めします。また「危機」を読む前に本書を読んでおくと大変に役立ちます。

フッサールに興味を持つ人は是非ご一読を。

フッサールの現象学入門として ★★★★★
本書は現象学の創始者であるフッサール(1859-1938)の後期の作品をドイツ語から翻訳したものです。フッサールはハイデガー、サルトル、メルロ= ポンテイ、レヴィナスなどの数多くの哲学者に大きな影響をあたえたことでよく知られています。この本の副題は現象学入門(Eine Einleitung in die Phaenomenologie)となっています。しかしドイツ人が哲学史とフッサールの現象学の基本的な知識なしで、この本を原書で読んでも、難解なテキストのせいで理解することができないと聞きます。この難点を訳者は本書の丁寧な訳注、解説、牽引の中で大部分解消しています。特に訳注での簡潔で要領を得た哲学と現象学の専門用語の説明は、本書のみならず、フッサールの他の著作を理解する上でも非常に有益です。こういった理由で本書を通じてフッサールの現象学の全体の輪郭をつかむことができます。