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夏草冬涛 (下) (新潮文庫)

価格: ¥580
カテゴリ: 文庫
ブランド: 新潮社
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少年時代 ★★★★☆
 しろばんばから読んでいました。主人公の洪作少年は中学三年生というから15歳前後かと思っていたのですが旧制中学校で18歳ぐらいだとか。そう見るとずいぶん幼く見えてしまいます。放埓に生きる先輩たちに憧れその仲間に入っていきます。自由奔放に生きている先輩たちですが、その一方で本を読み、高尚な思考にふけっています。かたや洪作少年は自堕落な部分にのみあこがれて模倣するようになります。かつての村一番の秀才少年も見る影ありません。いい感じです。

 若者たちの放埓な振る舞いの例を挙げると「学校をサボる」「タバコをすう」「食事に招待されて勝手に行く人数を増やす」「客先で機嫌が悪くなりテーブルをひっくり返そうとする」「他人の家の庭で殴り合いのケンカを始めようとする」「病人の友人と2階の窓から抜け出す」「帰宅のための電車代でラーメンを食べる」「連絡もせずに家の人に心配をかける」「家財道具を買うために貰ったお金で旅行に行く」「人の家に呼ばれている途中で海で泳ごうとする」「自分のせいで船の出港を待たせているのにのんびりしている」 あれ?たいしたことないのかな??

 物は無くとも充実した時代だったようです。
 
明治のこころ ★★★★★
”しろばんば”の幼年時代、”北の海”の青年時代をつなぐ位置にある。直線を左から右へ進むように、視点の転換や時間の逆行もない素直な展開は、前後二作と変わりなく、非常に読みやすい。現実というのは小説ほど奇天烈なこともなく、なんにもない日常にこそ、読者の共感や郷愁を、おおいに呼び起こすのだと思う。
しかし、このような私小説的な小品のようではあるが、社会や人生という重大テーマを省みる要素をきっちりと押さえている。たとえば洪作が湯ヶ島に帰省した折、旧友と出会うが、とんでもない誤解を受ける場面などは、超えるに超えられない階級的格差に呆然とする少年の痛ましさを感じる。また友情、思春期などといった少年期に通過する関門を、とくに事件が起こるといったこともなくさらりと通過しているのは、さすがに文豪たるゆえんだろう。
さらにもうひとつ、心を動かされるのは、少年を取り巻く大人たちの振舞だろう。
三島、沼津においても、湯ヶ島においても、洪作はあまたの大人たちから愛情を注がれる。
三島の真門の伯母が、帰宅の遅い洪作を捜しに出て、その間に帰宅し風呂に入っていた洪作に、薪をくべながら
「たんと笑いなさい」…「伯母さん、泣いたの」「泣きはしないよ…ただ自然に涙が出たんだよ」
このシーンは読んでいる僕が泣いてしまった。
他に湯ヶ島の祖父母や叔父夫婦。沼津中の眉田先生や妙高寺のお師匠さんや郁子、いや、通りすがりの大人達ですら皆、子ども達に最大の愛情を注いでいる。
僕達はいま、(ちょっと注意したら、逆切れして刺されて命を落とした)などという、くだらない、救いようのないような事件に囲まれている。そこから生まれる他人に対する疑心の連鎖が、実は欧米諸国と中東世界の絡み合う、憎悪の連鎖の発端となっているのを誰も気付いていない。
ほんとうに見直すべきは明治のこころだ、と思わせる作品だ。
まぶしすぎる青春時代! ★★★★★
北の海を読んで、本作品の存在を知りました。
順番でいうと、しろばんば、本作品、北の海と読んだほうが
時系列的に分かりやすいかもしれませんが、
十分楽しませて頂きました。
主人公の洪作と三人組との出会いにより、心の中にもともとあったと思われる自由奔放への憧れのスイッチがオンになり影響を受け、
海辺を駆け、詩を歌い、新たな自己像を作り上げていきます。
北の海に優るとも劣らない秀逸作品です。
こちらも何度も読み返したいです。汽車の中で北の海を見ながら。
古くて新しい ★★★★★
登場人物一人一人の発言が機転が効いていておもしろい。古さも固さもあまり感じさせない。一気に読める。
読み終わった後は、淋しいような楽しいような気分になれる。
「しろばんば」から「北の海」まで続く洪作が主人公の作品で、洪作の中学生時代。
やっぱり大文豪 ★★★★★
『夏草冬涛』は、大正時代の伊豆で育つ少年洪作の生活を描いた『しろばんば』の続きです。
 中学生になった洪作は、三島の伯母さんのところに下宿し、沼津の中学に徒歩で通っています。優等生だったのに、成績が急降下しはじめた洪作。自分でも成績が落ちるのはまずいとは時々焦ったりしながらも、勉強より、一年上級の自由奔放な文学少年たちとの交流にひかれていきます。だからといって洪作自身がとくに文学少年なわけでなく、洪作自身は「友達次第で優等生にも不良にもなれる」ような普通の思春期の少年。従って「早熟で無頼な秀才文学少年の転落物語」といった濃い話ではないです。新しいものと出会ったり自分と違う世界をかいま見たりする中、いろいろな要素で影響されやすい思春期の少年の心のうごきが等身大でさらさらと描かれています。
「上品」で「都会風」な親子のところに遊びに行って出された羊羹の切り方の厚さにひそかに動揺したり、自分より後輩の少年がチェーホフを読んだというのをきいて「自分より年下なのになんでチェーホフなんて自分が知らない作家の名前を知ってるんだろう」と焦ったり、「成績が落ちたら伯母のところの下宿をやめさせ、寺に下宿させる」といわれて寺に行くのがいやで病気になるほど猛勉強したのに、自由奔放な文学少年たちに「寺?いいなあ」とうらやましがられた途端、寺も悪くないような気がしてきて、勉強するのやめちゃったり、「この小説読み出したらやめられないほど面白い」といわれて、「読み出したらやめられないような小説なんて本当にあるのか?」と思ったり。
 このシリーズは、井上靖の自伝的要素の濃い小説(自伝ではないけれども)といわれています。作家が自伝的要素を主人公に投影して書く場合、頭の良さや早熟ぶりを強調するなどナルシシズムの要素が濃くなったり、あるいはナルシシズムに陥るのを忌避するあまり自嘲的自虐的になってしまったり、もしくは、小説を面白くするためにわざと主人公の「人と違った個性」を強調することも多いと思うのですが、そうならずに、どこにでもいるような普通の少年を書いていて、しかも面白いあたり、さすが大文豪井上靖だと思いました。