奇想天外な事件も、胸を焦がす大恋愛も、文学青年じみた退廃も一切無し。ただひたすら、爽やかに、おおらかに、ユーモラスに、輝かしい時が流れて行く。よく井上靖の小説に「悪人」は登場しないと言われるがこの作品でも然り、乱暴者や厳格な偏屈者は出て来るけれど、皆どこか憎めない。実在していたら会いたくなるような連中ばかりである。
もし、こんな青春の時がいつまでも続いたら……、洪作が両親の住む台北行きの船に乗り込むラスト・シーンに来ると、何度読み返してもそんな淡い憧憬と寂しさを覚えてしまうのは私だけであろうか。自伝的要素の強い作品だけに、井上靖自身もきっと、この作品の中にそういった青春への鎮魂歌としての感慨をこめていたに違いない。
個人的に「北の海」は「三四郎」と並んで大好きな青春小説で、日本文学には稀な清潔さを持った作品として非常に貴重な存在だと思う。「あすなろ物語」の悲哀に満ちた世界に惹かれた人にも、是非この小説を読んで頂きたい。
それまでは何も考えず、ただ夢中で読み返していたが、ふと、この小説の素晴らしさを他人に説明できない自分に気付き愕然とした。
元来、国文科に在籍しながら、作品を分解して鑑賞する事に意義を見出せず学生の本分をまっとうしなかったワシが、何を今更だが、「北の海」を説明できないという一点に於いて講義と演習に身を入れなかった事を悔いている。
読み進む内に揺れ動く洪作の気持ちが若かりし頃の自分とフィードバックされていき、なんとも表現しがたい甘ーい感触を思い出します。
よく晴れた休日の午後にお薦め。