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文盲 アゴタ・クリストフ自伝

価格: ¥1,470
カテゴリ: 単行本
ブランド: 白水社
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書くとは何か ★★★★☆
『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』と読んで、作者アゴタ・クリストフとはどのような人なのかと強く興味をひかれ、自伝と称されるこの本を読んだ。90ページの簡潔な文章はすぐに読める。が、その一行一行に深く考えさせられた。自伝というより、彼女にとって書くとは何か、それも、母語ではない言葉によって書くという行為は何なのかを問うているように思われた。それはまた、生きるとは何なのかへも続くように思われる。
『第三の嘘』で、前二作品が、クラウス(実はリュカ)の体験から書かれた創作であることが判明する三部作の構成には、驚かされたが、『文盲』を読んだ今も、そのように書かれた小説が、クリストフの戦争や亡命体験を踏まえて書かれた作品である事実に、感動を通り越して、書くということの凄味を感じた。
言葉の力を見せつけられる ★★★★★
言葉の力を見せつけられました。
冗長である必要はまったくない。
適切な言葉、文章の選択によって、
これほど想像力をかきたてる文章、本が出来てしまうとは。

過酷さを思うと胸がしめつけられるような思いにとらわれます。
もうこれからきっと、新作はでないのだろうけど、
アゴタ・クリストフの過去の作品を
なんとしてもフランス語で読みたくなりました。
書と呼ぶに値する類まれな本 ★★★★★
「わたしは読む。病気のようなものだ。」
 冒頭から彼女、アゴタ・クリストフの言語感覚の深みに惹きこまれる。
「わたしは四歳。数日前から戦争が始まっていた。」
 この時期の、この世界の中に、『悪童日記』が孕まれたことを読者は予感する。読み進むにつれ、『悪童日記』と地続きの世界が、改めて浮かび上がる。
 難民になるということは、著者にとっては、母語を失うことであった。四歳からそれまでの時間が、「過去」となった。
「自分で選んだのではない」言語で書きながらも、「文盲」という強烈な自覚のもとに、著者は、「砂漠」を生きる。その歩みのうちに、『悪童日記』が生み出され、さらに本書が生まれた。
 その文体は、単純に見える。しかし、一つ一つの文に重い観念が宿っている。観念の表現としての事態の叙述には、一切のタブーがない。一般にタブーとされるもののみならず、日常的にやり取りされる言葉に潜むものをも抉りだす。まさに、明視の人である。
『悪童日記』の世界に心惹かれた人には、必読の書と言える。初めてアゴタ・クリストフに接する人にも、本に世界を望む人であるならば、決して期待が裏切られることはないと信じる。
彼女の中の失われ行く世界 ★★★★★
言葉が世界を規定するとしたら、著者が体験したのは本来彼女のものであったひとつの世界が選ぶ余地なく与えられたもうひとつの世界によって少しずつ追いやられ、失われてゆく過程だったのだろうと思う。
そう考えると、『悪童日記』の他の何にも似ていない静謐なグロテスクさとか、感情から遠ざかろうとして逆にその本質を露呈するような感じとかの精神的な背景を少し理解できた気がする。
あれは失われゆく世界に属する事柄をそれを追いやった世界の言葉で描いた物語なのだ。
自伝としてはかなり短い部類に入ると思うが、それだけに彼女の魂の核を垣間見た気になった。
喪失を経てなおも続く、読み、書くという営み ★★★★☆
100ページに満たないこの自伝は、ハンガリー人のフランス語作家アゴタ・クリストフによるものです。彼女の小説と同様に、叙情や郷愁、時には怒りといった感情を内に秘め、静謐な語調で淡々と自らの生が語られていきます。
クリストフは、1956年にソビエトの侵攻と圧制から逃れ、夫と幼い娘と共にオーストリアを経て、スイスへ亡命しました。彼女が21歳の時でした。それは、彼女が生を受けた国を永遠に失い、生を持続する上で呼吸と同様に彼女にとって不可欠な行為である「書くこと」を、フランス語という「敵語」で行うことを強いられることでした。「敵語」という一見不穏な響きを持つ言葉を用いる理由は、この自伝のなかで彼女自らが述べています。「この言語(フランス語が)が、わたしのなかの母語(ハンガリー語)をじわじわと殺しつつある」。亡命先のスイスで彼女はフランス語を習得し、フランス語で読むことそして書くことを続けます。工場での労働の後に、子育ての合間に。
そして、『悪童日記』(原題”Le Grand Cahier”の日本語訳として適切とは思えませんが)、『ふたりの証拠』、『第三の嘘』が賛嘆の的となり、重要な現代作家としての揺ぎない地位を確立します。しかし、彼女は幸せだったのでしょうか? ハンガリーが悲劇に見舞われず、母国語で、もしかしたらフランス語の時とは異なった文体で書いていたとしたら? このような仮定の話は無意味かもしれません。しかし、彼女がハンガリーで寄宿舎生活を送っていた時に書いた、静かで、叙情に満たされた美しい詩を読むと、そのようなことをつい考えてしまうのです。

昨日は、すべてがもっと美しかった、
木々の間に音楽
ぼくの髪に風
そして、きみが伸ばした手には
太陽。