寺社巡り入門の書
★★★★☆
特に寺社等には格別の関心も無く過ごしてきましたが、
熊野本宮大社を詣でた際、その神社と自然が調和した
清らかな空気に感動して以来、神社に関心を持つように
なりました。
(京都の有名どころの寺社を訪れても、その混雑さ等から
観光地を訪れた位にしか思いませんでした。)
これから寺社を巡ってみようと思っていたときにアマゾンで
見つけたのが本書でした。
参拝の基本のキも知らなかった者にとっては参拝ルール等は
大変参考になり、また社殿の作り等や仏像の特徴など、寺社
巡りをより深くできる基本的な知識が参考となりました。
これから神社に奉られている神様やその物語を知るために古事記
や日本書紀についても学んでいこうと思います。
まずは阿刀田高さんの楽しい古事記 (角川文庫)を読もうと思います。
神社とお寺でリフレッシュ(^ω^;)(;^ω^)
★★★★★
タイトル通りに、神社とお寺を参拝する作法がわかりやすく書かれています。新書判なので携帯に便利です。さらに興味を持つために、神道の神々、社寺の建築様式、数ある仏像の見分け方も豊富に書かれています。
●古代の神社
初期の神社には建物がなく、神様が降臨するとされていた樹木や鎮守の森そのものが崇拝の対象だった。
祭りのときだけ、仮の建物を設けて神様を迎える。祭りが終わると建物は取り払った。やがていつも神様がおられるようにと、常設の社殿が作られた。
古代の日本人はこの世のすべての事象に霊魂が宿ると考えていた。弥生時代は各地の首長の自主性が強く、どの神も平等だった。大和朝廷(天皇家)が日本統一を果たし、天照大神を氏神とした。天照大神の優位は霊的よりも政治的なものかもしれません。
●神社への参拝は穢れを祓うこと
神道における穢れは、気が枯れた状態=気枯れである。
鳥居にはじまり、手水舎での禊、鈴による魂振り、お賽銭。神前に出るためには、様々な形で穢れを祓わなければならない。参拝とは日常の知らずにまとった穢れを祓い、清らかさを取り戻す行為である。
●古代の仏教
寺院めぐりの最大の楽しみは、仏像拝観である。ところが釈尊が入滅して数百年、仏像は作られなかった。
「何かを拝んで救いを求めるのではなく、教えを拠り所にし、自ら悟りを得なくてはならない」と釈尊が言い残したため。
本来の仏教は無常を知り、偏った考えを捨てて中道を生きるという個人の悟りに重きをおいた。
●神仏習合こそ本来のもの
その昔、神社とお寺は同居していた。仏教伝来以来まもない頃から、神と仏は渾然一体となっていた。
明治政府は神仏判然令によって神道と仏教を区別するようにした。天皇を神格化するためである。政府が仏教を廃止したと思いこんだ民衆は、全国の寺院、仏像の破壊を行い、半数が廃寺になった。国宝級の仏教美術品が海外流失してしまった。
基本のキを教えてくれる
★★★★★
(1)参詣からお祭りまで知っておきたい基本
・神と人を結ぶ「参道」は端を歩くのが礼儀(中央は神のために空けておく)
・参拝は二拝二拍手一拝、拍手は右手をずらすのがルール(左手は陽・霊、右手は陰・体)
・細かい作法を要求されないのが寺院での参拝(手のひらを合わせ、深くお辞儀をする)
・「穢れ」は「気枯れ」、古代日本では死体は放置された(火葬が始まったのは仏教の影響)
・神道で行われるのは死者を祝福する「神葬祭」(死者を神として祀り、神々の世界へ送る)
・三回か一回か、宗派によって焼香回数は異なる(真言等は三回、東本願寺二回、西は一回)
(2)神社&寺院“ツウ”になるすすめ
・出家後の悟りを開いた釈尊をモデルにしたのが釈迦如来(本来「仏像」は如来像だけ)
・絶大な信仰を寄せられる阿弥陀如来(「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽往生できる)
・阿弥陀如来の脇侍・観世音菩薩と勢至菩薩(観世音は観自在とも。死者を極楽へ運ぶ)
・地蔵菩薩は六道を巡り衆生を済度する(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)
(3)神道と仏教の歴史を知る
・神道ではこの世のすべてが「神」になり得る(八百万の神)
・祖霊信仰と結びついた日本の仏教(本来の仏教は無常を悟る人間中心、日本では神仏融合)
・願い事に合わせて参拝する神様を選ぶ(学問成就…太宰府天満宮、縁結び…出雲大社など)
・奈良時代、神社の境内に寺が建立され、僧侶が雇われた(神仏習合のなごり)