文学的な一作
★★★★☆
「司馬史観」
という言葉で呼ばれるように、司馬氏には独特の歴史観と感性がある。
街道をゆくシリーズは、各地の風景に触れ、司馬氏のその感性と歴史観が最も
如実に表現されるシリーズである。
が、この一冊については、シリーズ中では異例と言う程に文学的な感傷がある。
竹富島の白砂を見て輪廻に思いを馳せるシーンなどは特に詩的である。
作中、司馬氏は沖縄について考えると平静な気持ちでいられないこと、
また逆にここに原倭人の風景を見るような思いがして晴ればれとした気持ちになる、
ということを述べている。
この矛盾するような逡巡の行方はどうなったのだろうか。
与那国島での一夜。浜辺で泥酔し、大阪弁でくだを巻く学生の姿があった。
「本土が沖縄に何をしたか知っているか。沖縄の苦しみもしらないで、何や」
その後村の劇場で、司馬氏が地元の人に酒を勧められるシーンがある。
「さっき海岸でひろった紙コップですが、どうですか」
これについて司馬氏は
”おそらくさっきの浜で、あの学生たちが捨てたものではないかと私は思ったりした”
こう言って、この作品はプッツリと終わってしまう。
これは事実の描写ではなく、恐らく創作のシーンだと感じる。
離島の悲惨史について、司馬氏は直接的な言葉で意見することはなかったが、
このラストシーンで、何事かを示唆しているのではないか。
その何事かが何かは、結局司馬氏の中でも答えが出なかったような気がする。
ゆえにこの文学的隠喩で幕を下ろさせることになったのだろう。
倭人のルーツを感じた日本の西の果て、そこで感じた感傷は、
単に懐かしく甘いだけではなかったに違いない。
教養を深めるためにも・・・
★★★☆☆
本島から石垣・竹富・与那国島に渡る旅行記。重点はむしろ離島のほうに置かれている。
沖縄を学ぶために手に取った本だが、日本という国の成立過程まで話が遡るあたり、さすが司馬遼太郎だなと唸らされる。彼の手にかかれば、人間の排泄物でさえ、親鸞の歎異抄まで話は広がっていくのである。
沖縄料理の話題が出るわけでもなく、全般的に色のない旅行記ではある。ただ、沖縄という視点から、古代日本社会を垣間見るための道しるべとして読むには、うってつけの本だと思う。
”懐かしい”沖縄
★★★★☆
私は、関東地方の太平洋側に住んでいる。その所為かどうかは分らないが、
この本を読んで、幼い頃の田舎の風景を思い出した。田舎の風景と言うのは、関東地方の某市のことなのだが、何故だか懐かしさがこみ上げて来た。
沖縄には、古い時代の日本の言葉や文化が、現在もなお大事に保存されていると言われる。”沖縄”を知りたい人は、まず読んで欲しい。
沖縄の陰と陽を描いた、秀逸の旅行記
★★★★★
江戸時代の島津氏による侵攻、明治時代の琉球処分、昭和に入っての第二次大戦とそれに続くアメリカによる統治。これら沖縄が背負う重い歴史とコントラストを描くように、熱く照りつける太陽、はるかに青く澄んだ海原、風土そのままに暖かな人々の気風は、訪れる者をたちまち虜にします。司馬氏は、沖縄が内包するこの「陰」と「陽」を、旅行記であると同時に沖縄史でもある一冊の書籍の形に昇華させました。どちらに偏ることもない、この絶妙のバランス感覚に、氏の真骨頂が表されています。南国特有の軽妙な空気を味わいながら、沖縄の歩んだ道をトレースできる、贅沢な一冊です。
沖縄の人が知らない沖縄、本土の人の知らない日本
★★★★★
一般的に沖縄を描こうとするとその親しみやすさから贔屓目に沖縄を見てしまいがちですが、司馬さんらしい客観的な歴史観で沖縄を描いています。
沖縄の人たちを原日本人として捕らえ、訪れた沖縄を解釈していく。だから沖縄の人も知らなかった沖縄、本土人が忘れてしまった日本が見えてくる作品だと思います。