通常数期に分ける万葉歌を著者は二期に分ける。前期を人麻呂を中心として黒人、赤人を同列に論じ、憶良、旅人・家持を後期の中心とするのである。著者は終始一貫して「短歌の本質は儀礼における鎮魂・魂振りとしての、呪歌であった」という立場から「それが地霊を顕す自然の景象に向って発せられるときには叙景となり、人間に対する愛情の上に移されるときには相聞となる」として万葉歌をふんだんに論じていく。そういう本質的な理解に基づけば、自然、後期論での七夕論、表記論においても関心の中心は人麻呂ということになる。万葉集を読むことから万葉歌を詠んだ歌人の心へ、そしてその歌人の心から現代を詠むことに往還的につなげていくためには、神とともにでないとしたら共同作業的な活動になるだろう。折口の人麻呂歌人集団説ではないが、「巫祝社会的な基盤を主としてその集団性のうちに作歌者としての位相をみなければならない」とした上で、「集団の存在こそ、歌の伝承を可能にし、広汎な土壌の上に新しい文学の展開をもたらす」のだという著者の明言は、蓋し現代の短歌・俳句の大衆化された状況においても違った意味でかなり重要な指摘なのではないだろうか。