96円の土鍋で米を1合ずつ炊き、まれに余らせたご飯は干し飯にして保存食とする。鰹節で出汁をとり、出汁は製氷皿へ、鰹節はふりかけに。晩酌は自作の塩辛やたんぽぽのおひたし。ときにはちょっと贅沢をして、藁(わら)を拾ってきて納豆を自作。金銭的に見れば切りつめられたこれらの営みは、スローフードにも似た豊かさを感じさせる。それは、金が惜しいからではなく、極力無駄を廃し、豊かに生活を営みたいという思想が著者の根底にあるからだ。それが証拠に、一見貧乏人の味方であるように思える100円ショップについては、消費の快楽を手軽に満たすためのゴミの山でしかないと断言している。
著者の言う「貧乏くささ」、すなわち個の喪失とその結果としての無駄な消費は着実に私たちをむしばんでいる。決して裕福でない著者の生活をどこかうらやましく感じてしまうのであれば、それはその証拠にほかならない。「貧乏」という言葉を聞かなくなって久しく、不景気といえども食うに困るわけでもない現代において、お金とトレードオフに得られる心の自由こそ最大の贅沢であるのかもしれない。(大脇太一)