1969年5月、学生運動のピーク期に東大教養学部で行われた三島由紀夫と東大全共闘の討論会の記録である。思想的には対極に位置する両者だが、討論の内容は政治的立場を越えて、のっけから哲学的な問題へと入っていく。時間の概念を超越し、空間の中での理念的革命を目指す全共闘に対し、三島は時間の持続を主張する。文学の世界から意識的に「はみ出る」ことをライフワークとしてきた三島にとっては、現実の時間といかに戯れるかが切実な課題であったのである。さらに討論は、天皇の問題から、美と芸術の問題へと移行する。「美を現実の中で完結させたい」と言う三島。対して全共闘はそのような行為は醜悪でしかないと酷評する。
三島由紀夫はこの討論の翌年、自衛隊市ヶ谷駐屯地にて自決する。はたして自決という手段が「美の完結」であったのか。安易に結論は下せないが、本書は彼の死を考察する上でも、多くのキーワードを提供してくれるだろう。(三木秀則)
自分が情けないが、よくわからない…。
★★★☆☆
哲学、文学、芸術、政治、宗教、天皇論などなど。ざっと見ただけでもこれらのことについて延々と議論を闘わせているようなのだが、ともかく難しい!!というか、当時の大学生は、本当にこんな難しいことばかり考えて、難しい言葉を普段から多用していたのだろうか。結論としてはほとんどわからない討論だった。
カットされている部分が残念。
★★★★☆
せっかく文庫化するなら、完全版にして欲しかった。
議論(になっているのかいないのか抜きにして)が難解なぶん、余計に
ひとつひとつの言葉が大切だと思うのだ。
その点において、中途半端な感じが拭えずに残念。
議論はあまりに観念的。それが持ち味でもあるが。
「天皇陛下と一言言ってくれれば共闘してもいい」
★★★★★
この発言に三島の思想が集約されているのではないでしょうか。
思想的には正反対に位置するかのように捉えられがちな彼らが、
歩み寄れる可能性を示す一つのキーワードが「天皇陛下」だったのでしょう。
文筆家としてではなく、人間としての三島ファンには文句なしにオススメできます。
そして、当時の東大全共闘の学生諸君の高い言語力にも、
(勿論、若さゆえのスノッブ的要素があることは否定できないのですが)
尊敬の念を抱かせられました。
全体の印象としては他の方も書いている通り、観念論に終始しており、
言葉遊びの領域を出ることはないのですが、読み物としてなかなか楽しめるものになっています。
観念の言語化で訳がわかりません。でも読む価値はあります。
★★★★☆
討論の内容が観念を言語化したもので、まったくといってよいほど理解不可能であった。逆にいえばコレだけ観念を言語化できる(特に全共闘側)に敬意を表したい。三島にしてもこの討論を成り立たせた、ということで尊敬する。三島は腹巻に短刀を忍ばせていたそうだし、ある覚悟をもって望んでいたのであろう。現在の事情や情勢を考えて本書が何らかの影響を与えるかは疑問であるが、35年前の学生?の熱を感じることが出来ることだけは間違いない。その翌年1970年11月25日に三島は自決するが、うっすらと本書の中にその情念が刷り込まれているような気がする。その後の本討論に参加した全共闘達はどのような人生を送ったのであろう。また送っているのであろう。非常に興味がある。
観念のお化け対談
★★★★★
私の25年来の師匠に全学連の某大学の元委員長がいる。彼と議論すると徹底的に対話という形式に持ち込まれる。いや、正式には問題意識を責められるのと政治至上主義の言説で罵倒に近いものを感じ、いつも不快な気持ちで帰路についていた。ここ、5,6年やられっぱなしだったが、この9月3日に酒の勢いでしゃべりまくって初白星。話せば(怒鳴れば?)わかる(勝てる?)ことを実感した。そして、13日、古書店で新潮社版を見て、その後、書店巡りをしていたら偶然、本書に出会い、買った。学生たちの言葉は現象学をかじりつつ、美を政治に持ち込もうとする姿勢で観念のお化けみたいだ。三島もよく対応している。考えてみると美を政治に持ち込もうとするその姿勢は両者には共通していたのだろう。しかし、政治に美を持ち込むことの危険性は歴史が証明しているのではないか?当事者たちは気づいていないかもしれないが、私はこの討論の本質そのものがその後の運動の悲劇と不可分であることを確信した。美と自らの観念(=言葉)に陶酔しつつ、政治を語ることの危険を痛感した。そして、政治は観念ではなく、日々の生活からの言葉であるべきだと再認識させられた。ああ、私の年齢は三島がこの討論に参加した歳と同じである。