さて、ラカンの本は文学書あるいは現代思想理論として読むべきだろうか? それなら理解できなくとも実害はない。ラカン解説者の解説がラカンの原典をいかに誤解していようと、解説者同士の理解に齟齬があろうと別に問題はない。勝手にやってくれればいいからである(笑)。
ところが、もしこの本が「精神分析」の本であると、それは非常に困る。わたくしは精神科治療の現場やメンタルヘルス関連の現場にいたこともあるし、少々ながらトレーニングも受けた経験があるが、当然のことながら医療はアートである。この場合のアートは芸術ではなく技術である。当然、教科書はある一定の知識を持つ人間(この場合は基礎医学や生物学になるだろうか)ならばなるべく誤解の余地なく記述がなされなければならない。つまり、読者による多様な解釈の余地が残される教科書は最悪ということになる。ましてや、一読して理解不能な教科書は論外である。
まさか、本書が精神医学のテキストとして読まれることはないとは思うが、一般の精神医学に対する誤解や偏見を招く一因にならないことを恐れるばかりである。実際はこれほど秘教的でもないし、形而上的なものでもない。
結局、わたくしが本書(あるいはラカン理論全体」を高く評価しない理由は、「私はラカンを欲望しない」からということに尽きると思うが、ラカンの言う通り私の欲望が<他者>の欲望だとすると、「ラカンは私を欲望しない」ということだろうか?(ラカン理論を正確に理解していないので誤解かもしれない)当然であろう。ラカンはわたくしになどまったく関心はなかろうから。