PISAショック
★★★★★
PISAショックにより習熟度別指導の問題点が浮き彫りにり、同時にエリート教育も敗北であるという結果が出た。そのような現実がある中で、日本では公立校でも習熟度別指導を推し進め、塾でも個別指導塾が幅をきかすようになるなど時流とは完全に逆の方向に流れている事が分かる。一方でフィンランドのように複式学級制が多いなかで共同学習をとるシステムの成功がみられる。前者と後者は一長一短というものではなくかなり色濃く勝敗を分けている。エリート教育が目指す所の上位層のレベル向上を目指すという目的とは裏腹に共同学習をとっている国に上位層(国際平均の上位10%)と認められる割合でも劣っている。一方、一見共同学習は底上げが期待できるように思えるかもしれないが、意外にも上位層と認められる割合でも上回っており、かつ、 下位層の底上げにも成功しているという具合だ。
途中いくらか納得しかねる論理的飛躍はあるものの、概ね議論は誠実で実りのあるものだった。70ページというボリュームのなかに多くが詰まっている。
両極端な主張が目立つ
★★★★☆
私は習熟度別学習制度の導入には反対である。しかし、臨機応変に習熟度別のクラス編成を一部で行なうことに異論はない。
この点、佐藤学氏は習熟度別学習の実施(一部であれ全体であれ)そのものに反対している。「学校の塾化」や「教師の責任喪失」、「サービスへの傾斜」など、公教育の場において習熟度別学習がもたらすデメリットを挙げて批判する。極めつけは、PISAの国際学力比較調査の結果を提示した上で、日本の子どもたちは学習意欲が低下し、氏の持論である「学びからの逃走」が起こっている、として、その原因を習熟度別学習にあると断じている。
この議論は間違ってはいない。しかし、問題は習熟度別学習にあるのではない。氏が同時に論じているように、問題は「地域」「家庭」と「学校」のリンクの在りようなのであって、習熟度別学習というシステムではない。また、PISAの事例の引用も適切ではない。PISAの測定尺度がたまたま成績上位国のシステムに適合していただけである。今回の成績下位国に尺度を併せれば、結果は変わるだろう。その場合、「学力とはなにか」という不毛な議論が再燃するのである。
要は、本書が言いたいことを読者が深読みして、佐藤氏が本当に言いたいこと(「公教育の責任」、「教師の責任」、「地域社会と学校の提携」など)を読めるかどうかにある。その意味で、本書は評価が二分すると思われるし、議論を鵜呑みにするのは論外である。佐藤氏の他の著作を読めば、本書で言いたいことが実は本当の表層に過ぎないことを思い知るだろう。
塾と学校は目的も手段も異なる,と主張
★★★★★
百マス計算・少人数指導・習熟度別指導はすべて「学校の塾化」である。塾は,個人主義的ニーズに応えるサービスだからみな満足するが,全体として学力格差を拡大させ,社会を悪化させている。技量不足の教師には塾化が有効だろうが,塾を真似せずとも学力は向上する,実証データも成功例もある,と言い切る著者。世間一般の思いこみへの真正面からの反論であり,実に興味深い。実践報告について書かれた他の著作も読みたくなった。
東大でも協同学習を
★☆☆☆☆
日本の小中学校は習熟度別でないので、平等、高校と大学は習熟度別、能力別になってるので平等でないとのことなので、いっそ、佐藤学先生の勤務先である東京大学もすべての学生を受け入れて、協同学習をされたらと思いました。そうすれば圧倒的多数の中程度の学生には大変効果が出るはずですね。でも、トップと最底辺の学生は課外学習で面倒を見ることになるのですね。東京大学も「公教育」なのだから大多数の利益を守らないといけませんからね。
この本は小中学校の先生のために書かれている本だと思いました。
子どものためを考えて書かれたようには思えませんでした。
親は先生が子どもを個人として見てくれることを願っています。
個人としてスキルアップして欲しいし、その中には基礎学習も集団の中でメンバーとしてやっていく能力も含まれます。基礎学習が出来ない、集団の中のお客様にはなって欲しくありません。
子どもたちは知っている
★★★★★
「できる子、ふつうの子、できない子」と分けられていることを、小学生たちでも知っている。学力の基礎基本を身につける低学年の時期から、すでに習熟度別(学力別)に編成されることに対して、「本当にそれでいいのだろうか」という素朴な疑問を感じざる得ない。当の現場の教師たちからあまり批判の声が聞こえてこないことに対して、もどかしさを感じる。習熟度別は、「区別」ではなく、明らかな「差別」だと思う。このままでは、子どもたちの心はますます荒んでいく。