著者は「冗長」と批判しているが、Laffontによる"The Theory of Incentives"の方が、初心者にとっては入りやすい。日本の先生の書く本は、完成されたものを効率よく(綺麗に)まとめることに終始しがちだけど、それでは一体何がきっかけでその理論が発展したかがわかりにくい。それに対して、米国の本は、self-containedで、とりあえず間口の広さは確保して、適宜文献を紹介したりして、いい意味で読み手が寄り道できるような構成になっている。(だから、「冗長」という批判自体は、とても的確なのだけれど。)自分でぼんやり考える余白の時間を与えてくれる。
一長一短はあるけれど、「契約理論」の啓蒙も著作の目的だったとしたら、とりあえず、その点ではこの本は残念賞。難しいところだけど。
本書の特徴としては、
① 逆選択やモラル・ハザードの応用トピックが多彩で、一冊にこれだけ纏められているテキストは他に無い、
② 証明の細部まで比較的詳しく解説が為されていて、原論文を直接読むよりも良い場合がある、
③ 他の上級書との比較において、サラニエよりも叙述が詳しく、ラフォン&マーティモン程にはモデルの簡略化をしていない、
④ 章末に付いている文献ノートの解説が適切で、更なる上級トピックの研究を自分で調べることができる、
といった利点が挙げられる。
しかしながら、欠点と呼ぶべきものが無いわけでもない。
第一に、実証分析、オークション、不完備契約の理論が他のトピックの扱いに比べると手薄であり、きちんと学びたい場合は、サラニエ、クリシュナ、ハートのテキストを各々補完的に読む必要性がある。
第二に、数学付録は定理の結果を羅列しているだけであり、特殊なトピック(単調比較静学と優モジュラー関数)に関しては定理の証明に関する直感的な解説が必要だと思われる。勿論、学部上級生や院生にとって、最適化理論と確率の計算は既知のものになっている(はず、だよね?)ので、一般的な数学のトピックに関しては今のままでも問題はないだろう。
第三に、複数プリンパルの今後の発展を考えると、メカニズム競争モデルや共通エージェントにおける二者択一式(take it or leave it)契約の問題にも若干触れておくべきではないかと思う。さらに、欲を言うのならば、課税原理の応用例も一つ欲しいところであった。
さて、以上の指摘した欠点などは取るに足らないもので、長所がはるかに短所を上回る。全てを鑑みて正当な評価をすれば、本書は契約理論における世界最高水準のテキストであると断言しても過言ではないだろう。秀史先生の優れた才能と見事な手腕によって、契約の経済学という十分に成熟した実り豊かな研究体系が紹介されることは望外の喜びである。今後、益々契約理論の重要性が増していくことを考えれば、多くの研究者や院生が手に取るべき第一の本であろう。