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現象学の理念

価格: ¥2,730
カテゴリ: 単行本
ブランド: 作品社
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人が認識することの意味についての理解を転換させる本 ★★★★★
フッサールの現象学がとても面白いと思うのは、人が何かを認識することの意味についての理解が転換され、そうすることで、人間に共通する認識の構造が理解され、そこから相互の理解へ進み得る根拠が、哲学の原理として提起されているように思えるからです。

前記のことが本当であるかどうかについて、認識の基盤である知覚からはじめてもっと精緻に説明している「イデーン」や、対象を主として学問に置いている「危機」よりも、さしあたって現象学的認識についての考え方を掴むには、多少論理や概念に曖昧さがあったとしても、この本の方が適しているのではないかと思います。というのは、その道の基礎が十分にはない場合には、説明が詳しくなるほどわかりにくくなるからです。

この本を理解する上でのポイントと思われる箇所を一つ紹介しますと次のようになるのではないかと思います。それは、人が物事を、それが何であるかとか本当である(或いは虚偽である)と認識する根拠を、まずその対象を主観とは別の客観の中にあるものではなくて主観の中に写し出されているものであるとし、その写し出された対象の信憑性を疑い得ないと感じ取る人間精神のあり方に求める、と言うことではないかと思います。

フッサール現象学の入門、ということで読んだけど、今にして思うと・・・ ★★★☆☆
本書は、フッサール現象学の入門書として定評がある。フッサールのほかの書物では「厳密な学〜」と並んで分かりやすいほうだが、残念ながらどちらも、「現象学」特有の術語や方法が揃っていない時期のもので、これだけでは「姿勢」ぐらいしかわからない。ところで、「デカルト的省察」は最晩年の講演が基で、かなり纏まっているし、「他者」理解の問題までに及んで、なかなか人気の書物。でも、本書に比べると、何となく病気のように同じところをぐるぐる廻っていて、あんまり「偉大な」感じはしない。結局急がば回れで、「イデーン」を読まないと、フッサール現象学は殆ど分からない。だが本当は、「イデーン」でも良く分からないところがあって、フッサールの根本的なスタンスは、やっぱり「論研」だと思う。フッサールが直接イメージにあったのは、精密科学と数学の基礎となる方法論だと思うのだが、巷間流布されているより、或いは、「イデーン」以降、やや「カマトト」ぶった(?)フッサール現象学ではなく、「論研」にある、かなり専制的な普遍学構想が、フッサールの基本スタンスだと思う。それは極めて古典的なスタンスで、「普遍性の成立」「判断の妥当性」などのために「思考方式」を整えるものだ、そういうことは、本書や他の書物では「希釈されていて」分かりにくい。その結果、意識内容と外部の一致が問題ではなく、自らの体験を重視し、そこを反芻して「確信構造」をとりだす、というような態の良いだけで、何の役にも立たない、お調子者の「改釈」がまかり通る仕儀となる。敢えて言うなら、「論研」と「イデーン1」だけで良く、晩年の生活世界だ、他者理解だ、などとフッサールらしからぬ「視野の開けた」議論の諸著作など、二流品だと思う。本書は少なくとも、初期のフッサールの息吹を伝える、そういう意味では良い入門書だと思う。ときに、ヘーゲルの名訳で著名な長谷川宏氏の訳もあるが、分かりにくいので、本書を勧めます。長谷川氏の翻訳は「論理」の展開がエッセンスになる部分は、どうも骨子が見え難くなる傾向があります。
生と根源ドクサ ★★★★★
 翻訳の立松氏は、「好個の現象学入門書」とされているが、私は、現象学の実践にある程度親しんでから、この書物を手に取られることを勧めたい。「入門書」であれば、なになにはどのようなものであるかを知るために手にされるが、その前にその「なになに」に接しておかなければ、理解はあやふやになったり、表面的なものになったりする、そんなごくごく常識的な理由からである。
 具体的には、「論理学研究」第2巻第1研究〜第5研究(翻訳第2巻〜第3巻)、「イデーン」第2巻(翻訳2-1、2-2)の内、どれかを読んでから、接することを勧めたい(「内的時間意識の現象学」は、時間という実にやっかいなものが主題となっているので、省いている)。
 この1907年のゲッチンゲン大学での講義で、「現象学的還元」が、初めて明確に示されるのだが、私はそれについて改めて考えてみたし、それが楽しかった。読みながら、あれこれ現象学について考えてみる、そんな接し方が、一番正しいのではないか、そう私は思う。
 さて、「現象学的還元」とはドクサを排除することなのだと言われたりもする。この言表で核となるのは、「ドクサ」だが、その「ドクサ」とは何を意味するのだろうか。おそらく、「思い込み」以上のものではないだろう。その点で、「ドクサ」は内容空疎であり、そのことによってこの言表は、内容空疎である。一歩譲って、「思い込み」にある程度の意味を認めてみよう。この場合問題となるは「排除」である。「ドクサ」をどのようにして判別するのだろうか?思い込みでないものを「真理」だとするならば、「真理」によってしか、判別できないだろう。しかし、これからその「真理」を求めて旅立とうとしているのであれば、その時点では、「真理」の中身は空っぽである。したがって、その点でもこの言表は内容空疎であり、なにも語っていない。
 上記の言表が意味を持つためには、「ドクサ」の批判(吟味)が必要である。世界はリアルに存在し、「私」もまたリアルに存在する。「私」を取り巻く事物、植物、動物、人間はリアルに存在し、「私」もまたそのようなリアルな諸存在の一員である。そして「私」が消滅しても、世界はリアルに存在し続ける。そのような「確信」の中で「私」は生きている。少し反省してみれば分かるが、この「確信」無しでは「私」は生きられない。だが、この「確信」は、よくよく見てみれば、「ドクサ」である。この「確信」は、超越であり、証明することができない(詳細な説明は省く)。フッサールは確信を「根源ドクサ」と呼ぶが、反省の中で分かるように、世界についての「根源ドクサ」は、「排除」されるべきものではなく、生に必要不可欠なものである。そうであってみれば、「排除」するということは、問題にならない。この「根源ドクサ」に視線を向け、主題として浮かび上がらせることが、問題になる。
 「自然的態度」で生きる時、上記の世界「根源ドクサ」は隠れている。言ってみれば、「空気」のようなものであり、生に必要不可欠であるが、意識されることはない。「現象学的還元」とはこの「ドクサ」を意識すること、対象として浮かび上がらせることである。「私」の生と一体となったものを、ブレヒトの言葉を借りれば、「異化」することである。そして、現象学とは、この確信を、「異化」し、対象化し、この確信がどのようにして生まれてきたものなのかを探求し、そのことを通して、リアルな存在のあり様(性格)を明らかにしようとするものである、と私は思う。
 そのような問題設定を行った時、たちまち難問題が立ち塞がる。世界「根源ドクサ」を対象とするからには、その「根源ドクサ」の中で探求することは、許されない。「私」は、立つ所をことごとく、失ってしまう。徹底した批判(吟味)によって、立つことができる『場所』を探さなければならない。また、「根源ドクサ」に巻き込まれないような『方法』も見出されなければならない。その『場所』と『方法』を求めての批判(吟味)が、この書物である。
ひとこと ★★★☆☆
フッサール最初期の論考であり、フッサール自身の試行錯誤の痕跡が見え隠れする。したがって、入門的な内容を扱う割には分かりにくい。
ひとこと ★★★☆☆
フッサール最初期の論考で本文全体からフッサール自身の試行錯誤の痕跡を垣間見える。したがって入門的な内容にかかわらずやや読みにくい。
販売者としての評価 ★★★★☆
○購入金額は送料込み.大きい本はそれなりの重量があるので,送料実費であるとそれなりにかかる.送料無料は購入者には大きなメリット.○メール便で受け取った.メール便は送達日数がかなりかかるが,今回は購入日(11/16)から3日後に受け取った.逆算すると発送はかなり迅速にされたと思う.対応の早さはよい.