宇野さんの本質とは?
★★★★☆
宇野さんは演奏を聴いただけで、作品・芸術に対する奏者の姿勢や心構えをすぐに見抜いてしまうのだから、大したものだと思う。その風貌からして、衒学臭を漂わせる評論家というよりは厳格な教師然としており、ややその神経質さ、教師くささが鼻につき、批判や非難を浴びることもあるだろう(新書タイプの手軽本だと読者層が広いため反発される割合が高いみたいだ)。だが根っからの音楽人であることには間違いない。宇野さんはもともと合唱の指揮・指導をしていた人であり、その本質は、最近目立つオーケストラの指揮よりも、合唱指揮をするときに最もよく現れると思う。女声合唱集の<幻のコンサート>(日本女声合唱団)、<水のいのち>(カラコレス女声合唱団)などにぜひ耳を傾けてほしい。自分も昔、宇野さんが褒める演奏や芸術家をすべてチェックしたものだったし、往年のドイツシャルプラッテンのヴェルニゲローデ少年合唱団のドイツ民謡集に詳細かつ誠実に解説と対訳を書いていたのも宇野さんである。ちなみに、まさかロックとは言わないまでも、ジャズやソフトポップスなんて聴かないんですかね、この人は・・・。
鑑賞する側はほとんどが素人である。
★★★★★
宇野氏の評論でおもしろいのは、彼のご贔屓の音楽家の演奏であっても出来の悪いものに関してははっきりと指摘するところである。自分はフルトヴェングラーの大ファンであるが、彼のブルックナーはまったく良くないと思うし、それをはっきりと指摘しているのは宇野氏だけである。また、クレンペラーのモーツァルトにしても評判の良くないフィガロは実にすばらしい演奏であるように思う。朝比奈隆にしても今ではほとんど神格化され大量のメディアが発売されているが、以前はまったくローカルな存在だった。自分に正直な評論家という意味で、全く希有な存在であると思う。
読者が宇野功芳コピーとなる事を強いる本
★☆☆☆☆
音楽以前に著者ありき、といった感が拭えない。
タイトルからはガイドブック風の印象を受けたが、内容は個人的な音楽鑑賞日記であると思う。
楽曲・演奏評は、著者が捉え得た音楽の一側面が楽曲・演奏の全てを象徴しているかのように思わせる文体。
未知の楽曲・演奏に接する際の指標とするには音楽的内容に乏しく、作品の魅力が殆んど伝わってこない。
寧ろ、多用される大仰な表現によって作品に対して歪んだイメージを持つ危険性を感じる。
また、既知の作品についての論評を読んでみても、やはり言葉遊び風の論調に対する煩わしさを感じるのみであった。
突出した個性の案内人
★★★★★
宇野功芳を嫌う人の気持ちはよくわかる。とにかく歯に衣着せない。お行儀よくない。空気などかけらも読みはしない。誠にクラシックの批評家らしくないのだ。だが彼は自分の信念をどこまでも誠実に語る。決して妥協しない。
彼の熱烈な推薦がなかったら、私はエリック・ハイドシェックを聴くことはなかったし、クレンペラーの「フィガロの結婚」など見向きもしなかっただろう。そう思うと、本当にぞっとする。
彼の独断的な批評にはうなずけないことも多い。だが、例え9の外れがあっても、残り1の大当たりの規模がものすごい。宇野功芳はそういう批評家であり、突出した偉大な個性の紹介者として、彼以上の存在はなかなか見当たらない。
残念!!
★★☆☆☆
これまでに講談社から出版されてきた宇野 功芳氏の評論集を集大成したものである。個人的には、宇野氏の評論は、現在、日本語で読むことのできるもののうち最良のものであると思う。そこには、評論というものが、窮極的には、評論者の感性の直截な表現であり、また、評論者の感性の品格を露にするものであるということ――即ち、評論というものが、不可避的に評論者に果敢な自己開示を要求するものとならざるをえないという評論の本質が見事に体現されていると思う。
しかし、長年、宇野氏の評論に注目してきたものとして、ひとつ苦言を呈するとすれば、それは、とりわけ書籍においては、批評対象の演奏の具体的な特徴について充分な説明を割愛するために、宇野氏の文章がしばしばひとりよがりの印象をあたえてしまうことだろう。雑誌「レコード芸術」に掲載される批評においてもこうした傾向はしばしばみられるが、講談社の批評集においては、こうした問題は看過できないものとなっている。これは非常に残念である。
尚、2007年に改稿されたこの「改訂新版」には、約30曲の新批評がくわえられているが、普段、「レコード芸術」に目をとおしている方々にとっては、特にあたらしい情報はひとつもない。