ときにはヘミングウェイの代表作である、漁師の話を読んでみてはいかがだろうか。ヘミングウェイは戦後、『Across the River and into the Trees』(邦題『河を渡って木立の中へ』)などで不評を買い、作家生命の危機に立たされたが、『The Old Man and the Sea』(邦題『老人と海』)によって作家としての名声を盛り返した。1954年にノーベル文学賞を受賞するに至ったのも、この作品によるところが大きい。(かつては、「ノーベル賞を受賞した作家は、その後ろくな作品を書けない」と考えていたヘミングウェイだったが、このときは、喜んで賞を受けている)
それから半世紀が過ぎた今でも、彼の受賞は納得いくものだ。キューバ人の老漁師とマーリンの知恵比べ(あるいは、腕とヒレの対決と言うべきか)の物語は、「肉体とモラルの闘い」という、ヘミングウェイの得意とするテーマである。しかし、後に彼の作品をだめにする大きな要因となる、「銃に象徴される男らしさ」を演じるには、サンチャゴは年齢的にも肉体的にも無理がある。
「老人のほおには、熱帯の海に照りかえす陽光を浴びてできた、皮膚ガンを思わせる褐色のシミがあった。シミは、顔の横に、上から下まで点々と続いていた。手には半月状の深い傷があった。綱を使って大魚と格闘するためだ」
また、この作品でヘミングウェイは、かつて天下にその名をはせた、「瞬間」の映像を鮮やかにとらえるスタイルに戻っている。
暗くなる間際、大きな島のような海藻のかたわらにさしかかった。まるで大海原が黄色い毛布の下にある何かと戯れているかのように、明るい海の中で、海藻がゆらめいている。老人の細い綱に1匹のシイラがかかった。シイラは、海面に跳び出すと、残照を浴びて黄金色に輝きながら、体を反らせ、空中で身をくねらせた。
若き日のヘミングウェイがこの小説を書いていれば、おそらくサンチャゴは、しとめた大魚を港まで運び、著者自身が1935年ごろ好んでやっていたように、勝利を記念して写真を撮っていただろう。ところが、老人の釣り上げた獲物は、サメの群れに食われてしまう。港に着いたとき、残っていたのは骨だけだった。そしてとうとうラストシーンで、老人は床に伏し、わが身と創造主について考えるようになる。「老人はライオンの夢を見ていた」のだ。作品のいたるところに、芸術的寓意、あるいは経験から得られた寓意が漂っていると考えていいだろう。
何にしろ、『The Old Man and the Sea』が、ヘミングウェイの作品の中で、最後の「大魚」であることは間違いない。
不朽の名作
★★★★☆
夏休みに読みたかった1冊、アメリカの「戦後派」文豪ヘミングウェイ晩年の名作。
ストーリーは、ただ小舟に浮かぶ孤独な老人がカジキや青鮫とストイックに戦う姿をひたすら描写しているというだけなのに、短編小説として絶妙なボリュームで、飽きることなく読める。
むしろ、それだけに余計なものがない、男性的なタッチで生きること、戦うことに対してまっすぐに訴えかけてくる爽快感や大胆さが人を動かすのでしょう。そして、そんな中にも、老人の少年への優しさが描かれている繊細さがなおさらこの小説の力強さを引き立てている。
ベルナール・ファイの表現を借りると、「ヨーロッパは時間の原理のうえに成り立っているのに対し、アメリカは空間の原理のうえに成り立っている」という。
この小説は、このハードボイルドさとストレートな表現力から、アメリカ流でもヨーロッパ流でもない、そんな歴史的背景から想像されるイメージとはまた少し違った独特の印象を与えらた。
俺がカジキを運んでいるのか?カジキが俺を運んでいるのか?
★★★★★
あらすじを読んで「獲物は釣れて、しかもサメに食われて無くなる」ことまで書くのか、と思いました。
けれど、この小説では「オチが読めていること」は大した問題ではありませんでした。
食物を愛し、憎み、尊敬するサンチャゴの姿勢、決して諦めずに大魚へ戦いを挑む生き様そのものが筋だからです。
サンチャゴが、老いてなお自分の誇りのために(なのかも、あやふやになるほどに)
愛する海を食べて生きながらえる姿は、どこかカニバリズムのようにも感じられました。
釣り上げたカジキを船横にくくって、陸へ戻る際
「俺がカジキを運んでいるのか?カジキが俺を運んでいるのか?」と
疲れ果てた頭で考えるサンチャゴ、このシーンがとても好きです。
獲物を捉える瞬間、人生の全てがそこに集約される。
最後、獲物をサメに食べられてしまうのは、サンチャゴの何かが損なわれた暗喩なんだろうか?
だとしたら、失われたものとは何なのか、と思う。
サンチャゴは誇りも希望も捨てずに果敢に戦ったけれど、
ずっと、マノーリン(サンチャゴの弟子)が居てくれれば、と思っていた。
その、ちらっとした弱さなんだろうか。それが命取りになった?このへんの解釈はまだ考え中です。
人によって色んな解釈、色んな視点で読める作品だと思います。
アレクサンドル・ペトルフのアニメーション「老人と海」を先に見たのですが
海の照り返しや透明感、サンチャゴ(漁師である老人)の年老いた節々の動き、
全ての奥行きがその場にあるようで(でも、夢の国のように美しい)
作品のなかで人物や風景が生きている、と感じました。
そんな、印象的な映像が先入観であるなか読んだ「老人と海」でしたが、
小説で繰り広げられた死闘もそのままに、情景が忠実で感動します。
小説を読んだことのある方は、是非このアニメーションも見て欲しいです。
ゆっくりと時は流れる
★★★☆☆
老人と少年の年齢を超えた男同士の友情を背景に大魚との死闘や鮫との戦いが描かれている。
老人と大魚の死闘の中にはいつの間にか戦友として大魚のことを見るようになる。「生と死」を感じその中で「老いと若さ」を感じている。また戦いの勲章である大魚を貪る鮫を殺す中で「罪と罰」についても考えられている。
男性に共感をえやすいハードボイルドな作品であると思う。
新訳が待たれる
★★★★☆
それほどの長編というわけではないが、何十ページものあいだ、ほとんど一人の男の想いの中で壮大なストーリーが動かされていく。巨大な波に身をとられるように読み手はそれに巻き込まれる。なかなかできない体験です。難を言えば、魚ヘンの漢字が頻出して、鮪とか鰯とかもっと、じつは半分以上読めなかったのでそこはカン違いして読んでたかもしれません。総ルビで、できれば現代語に訳し直した新バージョンを望む。
命尽きるまで、ただ愚直に生きる
★★★★★
勝利は儚い。一瞬で手をすり抜ける。しかし最善を尽くしたという誇りは、永遠に人間を支える。
未来は儚い。一瞬で過去になる。それでも人間は、未来に希望を抱き続ける。
なるほど生きることは罪深いことかも知れない。勝利は誰かの敗北なのだ。誇りは誰かの屈辱なのだ。
お互いに決して共有できない痛みがあるのだ。だが寄り添うことはできる。
老人が魚に、海に、少年に寄り添ったように。少年が老人に寄り添ったように。
ヘミングウェイの死に、軽々しく言葉は吐けない。その痛みに寄り添えるほど、私は長く、深く生きていない。
ただ、文中の老人の言葉に、ヘミングウェイの本質を、理想を見る。
「けれど、人間は負けるように造られてはいないんだ」
「そりゃ、人間は殺されるかもしれない、けれど負けはしないんだぞ」
苦境にある人にこそ、受け止めてほしい言葉だ。