詩の森を散歩して麗しい果実をがぶり。
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この本の存在は新聞のコラムに載っていたので知りました。
生命は
自分自身だけでは完結できないように
つくられているらしい
・・・・・
生命は
その中に欠如を抱き
それを他者から満たしてもらうのだ
この部分だけでゾクゾクっとして、その先の
あなたも あるとき
私のための風だったのかもしれない
いいよぉ、そんな風に私もなりたい。
Iwas born も立原 道造も高見 順も清々しく魂が洗われます。
幸福は奇形。
★★★★☆
「吉野弘」=「生命は」初めてこの詩を目にした時、なぜか涙がでてきました。この本を手にし開いたページは"「生命は」ー代表作を求められて"。ただの偶然ではないと思わずにはいられませんでした。「自分は今、この本を必要としている。」その感はあたっていました。「〜花が自己を完結させるために自己以外の力を借りるということに、ひどく新鮮さを感じ、ある種の驚きを覚えました〜」とあり、やはり別の所でそれらと出会っていた事「〜生命というものは、自己に同意し、自己の思い通りに振舞っている末には、ついに衰退するというような性質のものではないか、その自己完結、自己同意を破る力として、外部から殊更、他者を介入させるのが、生命の世界の維持原理なのではないでしょうか。」やはり、そうか。自分が今出しつつある、けれど形のない答えがそこにはありました。更に"幸福は奇形"この言葉も暗中模索の自分自身への指針となりました。「だからなのか。」脱皮できそうです。
詩は精神の風景
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私たちが詩に感動するのは、言語の配置に感動するからです。風景に感動するのが、自然の配置に感動するように。だから詩は精神の風景なんです。
手垢に汚れた言語を原初の言語で表現したものが詩で、言葉が書くんです。言葉が言葉を呼び、詩的宇宙を創出するめにイメージが自由に展開されなければなりません。詩には概念にとらわれない、新しい発見があります。ここから詩が生まれるのでしょう。
混沌とした時代情況のなか、世界は祈りに満ちています。精神の風景が問われています。
言葉の風景としての詩は、いつも新しさを求めています。それが言葉の詩への通路なのでしょう。