ポピュラーではないが
★★★★★
カルロ・マリア・ジュリーニ(1914〜2005)は、20世紀を代表する指揮者の一人である。名声という点では同じイタリア出身のアバド(1933〜)のほうが大きいといえる。しかし、コアなファンを持っているという点ではジュリーニの存在も決して無視できない。チョン・ミュンフン(1953〜)をはじめ、熱烈な敬意を表する同業者も多い。その高潔な人柄も影響しているのだろう。
表現スタイルは、基本的に土台のしっかりした重厚なものである。決して軽妙洒脱ではない。しかし、まったく揺らぎがないかといえば、そうともいえない。かなり出来不出来にムラがあり、聴いてみて裏切られたと思うこともたびたびである。そこを理解した上でファンを続けているという人も多いだろう。
ジュリーニはかなりの点数のブルックナーの録音を残している。例によって出来不出来にムラがあるのだが、その中でもこのウィーン・フィルとの第7番は最も安定していると思われる。第8番、9番などは妙に粘着質なところがあったり、リズム感が悪いと感じるところもあるが、
この7番ではそういった欠点は目立たない。ジュリーニとしては個人的思い入れを排した客観的アプローチといえるだろう。そのぶん厳粛な音楽になっている。
最近では聴かれにくくなったウィーン・フィルの弦の美しさも、音楽造りが重厚で堅固であるぶん、はっきりと聴きとれる。ジュリーニはメロディ感覚にすぐれた指揮者でもある。
ただ、最近の私個人の傾向としては、ブルックナーに機能美を求める部分がある。徹底的に情緒を排した、精密な構造体としての美しさである。あるいは、メロディの美しさを生かした、線の細い美しさを求める部分もある。メロディーが美しいぶん、ブルックナーには耽美的、退廃的な美しさもある。
そうした美しさを求める私が、再度この演奏を聴いてどう思うかは不確定要素であるが、あまり大々的に評価されていないぶん薦める価値はあると考えている。
8番・9番とはだいぶアプローチが異なる
★★★☆☆
ウィーンフィルとの7・8・9番だが、
これ以上は遅く演奏は出来ないであろうかという9番、
やはりまったりとした8番とかなり違い、
7番は意外にあっさりと流している。
7番というと名盤が多いが、残念ながら9番ほどの感動はない。
ジュリーニ/第2楽章の静寂さのもつ意味
★★★★★
ジュリーニは1930年に、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団でヴィオラを弾いていたときに、ワルター、クレンペラーそしてフルトヴェングラーらブルックナーの泰斗の指揮を経験しています。その後、聖チェチーリア国立アカデミーで指揮を専攻します。
1914年生まれのジュリーニがブルックナーをはじめて録音したのは60歳の時で、1974年にウイーン交響楽団と2番のシンフォニーを取り上げています。この年、ボストン交響楽団の客演でも同曲を取り上げ、また、ニューヨーク・フィルとでは9番を演奏しています。1976年にはシカゴ交響楽団とこの9番を録音、1982ー83年にはロンドンで7番、8番を演奏しています。ジュリーニが他の番を好まなかったかどうかはわかりませんが、7ー9番は曲の完成度の高さと美しいメロディの聴かせどころでジュリーニ好みだったのかも知れません。
この7番(1986年6月ウィーン/デジタル)の録音では第2楽章の静寂さの表現が抜群です。孤独な心情、歩み寄る死への道程ではあっても、この遅い遅い楽曲に込められているものは、この世への絶望でもなければ、死への戦慄でもない。透明な空気のなかにほの明るく陽光がさしているような感じ。朝日ではなく黄昏の残映にせよ、それはあくまでも肯定的なものであることを確信させる・・・。ジュリーニの演奏からはそうした人生のもつ重みが伝わってきます。この値段ではもったいない名盤です。