『ニートの悲劇』か。
★★★★☆
太宰治の『猿面冠者』という短篇にこの小説の手紙が引用されており、
気になっていたのでこのたび買って読んでみた。当然のように『オネーギン』の方が面白かった。
語り手の目線が非常に特徴的であり、
三人称目線と一人称目線が混交することで不思議な味わいを醸していた。
なぜオネーギンとターニャの恋愛感情が巧く噛み合わなかったのかというと、
青年が働かずに遊んで暮らしていけるだけの金持ちだったことが大きいように思う。
なまじ叔父の遺産を継いでしまったがゆえに、満たされなさを抱くようになり、
ヘンに老成したポーズを身につけてしまったのではないかと思う。そのポーズの脆さは最後になって露呈する。
作者の意図からかけ離れた読みだとは思うが、私はこれを『ニートの悲劇』と受け取った。
オネーギンがもしも親父の借金を返す為に働く破目になっていたら、今回の悲劇はなかったのではないかと思う。
最もその場合だと、恋愛とは別の悲劇が起こったかもしれないが。
ちなみにあとがきの後ろの方に翻訳者の書いたエッセイじみた短文が載っているが、そちらも面白い。
池田氏は神西清氏の弟子だったそうな。う〜む。
失われた時、見出された時
★★★★☆
すれ違いとすれ違い。
早すぎた女と遅すぎた男。
非常に恋愛小説らしい恋愛小説、いや、失恋小説らしい失恋小説と呼ぶべきか。
あまりに優雅な暮らしぶりや拳銃を交えての決闘の場面、古き良きロシア的教養などが
今となっては浮世離れしたものとして想像の妨げとなることは多少あるかも知れないが、
200年にもなろうかという時を隔てた作品でありながらも、物語の展開は現代の人間が
読んでもそうは退屈しないほどにスピード感溢れたもの。
ただし、好き嫌いがはっきりと分かれる類の小説であるようにも思われる。
厭世的でありつつも同時に情熱的な主人公。ときに過剰なまでに絢爛豪華な文章。
いかにも、好きな人は好きだろうし、苦手な人は苦手だろうし、という小説。
ダンテイーな独身男に一矢報いた田舎娘タチアーナ
★★★★★
「オネーギン様、私はあのころもっと若くて、もっと器量がよかったように思います。そしてあなたを愛していた。」一度は恋心が抑えられず決死の思いでラヴレターを書き送ったタチアーナ。しかし都会の洗練を身に纏った憂鬱な独身男は件の田舎娘に見向きもしない。そして数年後、オネーギンは美しい貴婦人となった田舎の小娘を再発見再認識。狂ったように追い回し、今度は自分から恋文を送り付けた結果、最後に冒頭の台詞を受け取る。
男は女の真実の愛、真の美しさに気がつかないもの。逃がした魚は大きかったね!オネーギン君。プーシキンの燦然と輝く言葉の夢の饗宴。貴女の理想の恋物語がここに。
人生は引き返せない
★★★★☆
森鴎外の「舞姫」を彷彿とさせる作品。きっと、あの「舞姫」の文語体の魅力は翻訳で消えてしまうだろう、という想像が、この「オネーギン」の原作についても当てはまるのではないか。雰囲気はわかるものの、おそらくロシア語の原文でしかわからない味があるのであろう。
それはともかく、プーキシンの少しだけ後輩にあたるトルストイは、二人を一緒にしてしまっているわけであるが(「アンナ・カレーニナ」)、「人生は引き返せないのよ」と二人を永遠に引き裂いてしまうから一篇の悲劇が成立する。不倫や離婚・再婚を簡単に繰り返すことの出来る現代においてはロマン小説は生きてゆけないということであろう。
古さを感じません-結局二人とも人生に敗北した
★★★★☆
映画『オネーギンの恋文』をみて興味をもち、読みました。まだ小説というジャンルが確立しきっていない頃のもので、あちこち話題がとんでいるような感覚は受けます(もともとの作品は詩形式らしいのでそうなるのでしょうか)。が、テーマは普遍的で本質をとらえたおもしろい作品です。登場人物の心理描写が少し物足りないため説得力を欠く感じもうけますが、なにかイギリスのオースティンの内面描写に通じるものがあります。まとまりに多少かけるものの、すばらしい作品に加えられるべきものではあると思います。
このストーリーを謝って解釈している感想も結構見受けられますが(結局オネーギンは後から惜しくなっていいよっただけじゃん、タチアナあっぱれとか・・・)結局はオネーギンも、周囲の意を汲んで結婚し、周りからは人生の成功者と賛美されているタチアナも、ふたりとも真実の恋に、そして人生に破れたという悲劇です。