前衛短歌の鬼才による、近代短歌史の巨人第1歌集の鑑賞
★★★★☆
近代短歌史に屹立する斎藤茂吉の第1歌集『赤光』を、故塚本邦雄が、鋭い感受性と批評眼とペダントリーによって鑑賞した本です。単なる解説ではなく、茂吉の短歌の世界を塚本作品の世界として、再構成しているともいえます。
たとえば、
○みちのくに病む母上にいささかの胡瓜を送る障りあらすな(202頁)
の歌意を、塚本さんは、「故郷、奥州の病母に胡瓜を少少送る。母よこの夏も小康を保ち給へ。と、私はさう解し信じて疑はなかつた」。けれども、茂吉の自解を読んで、塚本さんは「愕然とした」。茂吉の真意は、「障りあらすな」とは、母ではなく、胡瓜が故郷に無事に着いてくれ、と願う心だったのです。ことばの流れから考えると納得できるのですが、塚本さんはそうではなく、「「あらす」の「す」は、上句に「母」がある限り、誰だつて「尊敬」の助動詞と取る。取らぬ方がをかしい。」と断言し、「真意を迎へ受けてもらふことを頼んだ作者の怠慢による表現の不備だ。」と、自分の誤解が悪いのではなく、茂吉の表現が悪いと決めつけます。では、この歌が駄作かというとそうではなく、「この歌の素樸な愛情に、私は涙ぐむ」と評価します。
このように、自由自在に、『赤光』の百首を語り尽くします。茂吉の他の歌はもちろん、他の歌人の歌、『万葉集』などの古典和歌は言うに及ばず、『吾妻鏡』も引用され、まさに博引旁証です。
その他、気に入った茂吉の歌をあげます。
○ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり
○にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
○火葬場に細みづ白くにごり來も向うにひとが米を磨ぎたれば
○よにも弱き吾なれば忍ばざるべからず雨降るよ若葉かへるで
○少年の流され人はさ夜の小床に蟲なくよ何の蟲よといひけむ
○とほき世のかりようびんがのわたくし兒田螺はぬるきみづ戀ひにけり
○ためらはず遠天に入れと彗星の白きひかりに酒たてまつる