これは
★★★★☆
これは同著「過剰な人」の改題。
だぶることのないよう注意。
きっかけとしては良いかも。
★★★★☆
自分はまだ一通りドストエフスキーの著作に目を通しただけで、深く読み込んで
彼が伝えようとした思想・哲学・倫理・ヒューマニズムetcについて自分なりにきちんと
理解できている、とは到底言えない立場です。しかし、そういった初心者的立場の人から
みたら、本作は深きドストエフスキー世界に対する解釈を試みる際の次なるステップへの足がかりになるようなものなのではないか、と思いました。
もちろん長年のドストエフスキー愛読者にとっては、本作のように、
ある意味では表面上の単純な解釈をされることに思わず腹をたててしまうこともあるかもしれませんが…
実際、まだまだ初心者に等しい私が読んでみての感想としては
「やっぱり、ドストエフスキーは奥が深そうだ、こりゃ改めて再読しなければ!」
といったものでした。
ドストエフスキーは読んでみたけど何だかよく分かんないや、というような人にとっても、
本作を読むことによって、だいぶドストエフスキー作品に対する
アレルギーみたいなものは取り除かれるのではないでしょうか。
以上、個人的な感想でした。
ドストエフスキーの作品が何倍も楽しくなる
★★★★★
ストーリーの読解には一切触れず、人物像に焦点を絞った本です。
齋藤さんの人物像の焦点のあわせ方は、すごい。の一言に尽きます。
もちろん物語の表ににじみ出ている独特の人間描写はドストエフスキー
のすごさですが、その登場人物一人一人に焦点を当てて、深く掘り下げ
るというのはなかなか斬新でした。
特に地下室の手記の主人公に自分がなんだか似てる。
なんて思いながら読んでましたので、なんだか自分自身を分析されてる
ような、照れくさく、恥ずかしい気分にもなれ、また新しい気持ちで作品
を読んでみようと思いました。
アカデミックな解釈本への入門書
★★★★★
私は亀山郁夫のドストエフスキー解釈にどこか物足りなさを感じていた。
と言うのも、ドストエフスキーを読んだときの私の内面から突き上げてくるような興奮を、彼自身が本当に味わったのかどうかに疑問を感じていたからだ。彼の解釈からはそのような実感が伝わらなかった。
本書を読んでその理由が氷解した。
彼は学者である以上、アカデミックな語彙を使ってドストエフスキーを読み解くのが務めなのである。であるがゆえに、個人的な興奮体験と作品解釈との間に一定の距離をとらねばならなかったのだ。
齋藤氏による本書はアカデミックな本ではない。
だから、「ドストエフスキー作品の登場人物は『過剰な人』ばかりであり、悪臭を放つチーズのように癖は強いが一度味わうと病みつきなる魅力がある」と平易な日本語で説明する。
であるがゆえに、ドストエフスキーを読んだときの「あの興奮」が呼び覚まされる。
喩えるなら、亀山氏の解釈は「最新電子レンジで低カロリー設定で焼かれた油分少なめのステーキ」であり、
齋藤氏のは「血が滴るような生肉」の語りである。
無論、どちらにも良さがある。
ただ、本書の巻末に亀山氏が書いた解説で、彼は齋藤氏のドストエフスキー解釈を評する時に「生肉」の顔を現す。
少々、いきんだ言い方になるのをお許しいただこう。何よりも、一種の憑依状態から繰り出される言葉の輝きであり、同期と異化の絶えざる往還であり、道化役に徹するアイロニーの切れ味であり、それらが一瞬のうちに反転し、目から鱗、胃の腑にすとんと落ちる箴言の数々である、と。(引用ここまで)
ま、私にしてみたらこれでもまだまだいきみ足りないとは思うが、学者が一人の熱いドストエフスキーファンに戻って語っているように感じた。学者という立場上、個人的な感情は日々抑え込んでいなければならない。そういう意味で、縛りのない齋藤氏の天真爛漫なドストエフスキー解釈を亀山氏はちょっと羨ましがっているのかもしれない。
いずれにせよ本書を通過した事で、次から安心してアカデミックなドストエフスキー本に進める。さらに奥深い味わいはきっとそこにあるのである、チーズのように。
ドストエフスキーとは関係ない「癒し」本
★☆☆☆☆
この著者の本を初めて手に取った。それはひとえにドストエフスキーがタイトルにあったからだ。ベストセラーをいくつか連発していたらしいお調子者という印象しかなかったが、本書を読んでみてその印象が正しかったことを確信した。
本書の中身はドストエフスキーの作品に登場する人物たちを材料にしているが、端的に言って、ドストエフスキーやその作品群とは何の関係もないと言わざるを得ない。
著者は本書冒頭の章で、現代日本人が「癒し」を求めることに疑問を呈し、癒しのビジネスに乗せられているのではないかと書いている。さらに、現代日本人は疲れているから癒しを求めるのではなく、エネルギーが捌け口を失って体内に充満しているためにイライラしているのではないかという。そのため、このエネルギーを噴出することが必要だというのだ。
まず、著者齋藤の本のコンセプト自体が、「癒し」ビジネスに乗っかったものである。さらに彼が指導しているらしい学生をはじめ、多くの若者がエネルギーの捌け口を求めだしたとき、
まずは彼齋藤自身が彼らの吊るし上げに遭うだろうことに、齋藤は全く無自覚である。
エネルギーを噴出させれば、スッキリ眠れるなどというのは、ドストエフスキーのどこをどう読んだら出てくる文句なのか?
著者のドストエフスキー評価は、登場人物の「過剰さ」だということだが、本書全編に漂うのはテキストとしての面白さを彩るキャラクターへの好みというだけである。ドストエフスキー的人物が、どういう文脈で、またなぜ生まれたのか、彼らを存在せしめた社会的な要因は何かなどということにはまるで興味がないらしい。
これまた、齋藤のコンセプトらしい「使える」路線の最たるものだ。「人間力」などという珍妙な言葉にそれが明白に現れている。
ドストエフスキーの過剰な登場人物のエネルギーの放散に対して、齋藤は「出る杭は打たれる」などということわざを当てている。これは誤用であるとともに、彼の立ち位置がわかる。
ドスト的過剰を、「限界を超えて仕事にのめりこむぞ」「超個性的な発想で他に抜きん出るぞ」という実用一辺倒の自己啓発的な文脈で使おうとしているのである。
そういえば、読んだわけではないが「使えるゲーテ」みたいな本も書いていたような気がする。メフィストフェレスでも使えるものは何でも使うぜ! 毒食わば皿までの誠に浅ましいスタンスだ。
というわけで、本書は何でも利用してキャリアアップしたいという自己啓発、自己責任、自己管理イデオロギーで「勝ち抜き」を志向する思考停止、癒し系の1冊であって、ドストエフスキーは「刺身のツマ」あるいは「虎の威」の類である。
ゲーテもフロイトもその他「声に出して」とか齋藤の本はまるで読んではいないが、彼の本が売れるのはそれが癒し系の本だからということがよ〜くわかった。
亀山学長はどうしてこんな本を褒めるのか理解に苦しむ。それが世間というものか。
これは
★★★★☆
これは同著「過剰な人」の改題。
だぶることのないよう注意。
きっかけとしては良いかも。
★★★★☆
自分はまだ一通りドストエフスキーの著作に目を通しただけで、深く読み込んで
彼が伝えようとした思想・哲学・倫理・ヒューマニズムetcについて自分なりにきちんと
理解できている、とは到底言えない立場です。しかし、そういった初心者的立場の人から
みたら、本作は深きドストエフスキー世界に対する解釈を試みる際の次なるステップへの足がかりになるようなものなのではないか、と思いました。
もちろん長年のドストエフスキー愛読者にとっては、本作のように、
ある意味では表面上の単純な解釈をされることに思わず腹をたててしまうこともあるかもしれませんが…
実際、まだまだ初心者に等しい私が読んでみての感想としては
「やっぱり、ドストエフスキーは奥が深そうだ、こりゃ改めて再読しなければ!」
といったものでした。
ドストエフスキーは読んでみたけど何だかよく分かんないや、というような人にとっても、
本作を読むことによって、だいぶドストエフスキー作品に対する
アレルギーみたいなものは取り除かれるのではないでしょうか。
以上、個人的な感想でした。
ドストエフスキーの作品が何倍も楽しくなる
★★★★★
ストーリーの読解には一切触れず、人物像に焦点を絞った本です。
齋藤さんの人物像の焦点のあわせ方は、すごい。の一言に尽きます。
もちろん物語の表ににじみ出ている独特の人間描写はドストエフスキー
のすごさですが、その登場人物一人一人に焦点を当てて、深く掘り下げ
るというのはなかなか斬新でした。
特に地下室の手記の主人公に自分がなんだか似てる。
なんて思いながら読んでましたので、なんだか自分自身を分析されてる
ような、照れくさく、恥ずかしい気分にもなれ、また新しい気持ちで作品
を読んでみようと思いました。
アカデミックな解釈本への入門書
★★★★★
私は亀山郁夫のドストエフスキー解釈にどこか物足りなさを感じていた。
と言うのも、ドストエフスキーを読んだときの私の内面から突き上げてくるような興奮を、彼自身が本当に味わったのかどうかに疑問を感じていたからだ。彼の解釈からはそのような実感が伝わらなかった。
本書を読んでその理由が氷解した。
彼は学者である以上、アカデミックな語彙を使ってドストエフスキーを読み解くのが務めなのである。であるがゆえに、個人的な興奮体験と作品解釈との間に一定の距離をとらねばならなかったのだ。
齋藤氏による本書はアカデミックな本ではない。
だから、「ドストエフスキー作品の登場人物は『過剰な人』ばかりであり、悪臭を放つチーズのように癖は強いが一度味わうと病みつきなる魅力がある」と平易な日本語で説明する。
であるがゆえに、ドストエフスキーを読んだときの「あの興奮」が呼び覚まされる。
喩えるなら、亀山氏の解釈は「最新電子レンジで低カロリー設定で焼かれた油分少なめのステーキ」であり、
齋藤氏のは「血が滴るような生肉」の語りである。
無論、どちらにも良さがある。
ただ、本書の巻末に亀山氏が書いた解説で、彼は齋藤氏のドストエフスキー解釈を評する時に「生肉」の顔を現す。
少々、いきんだ言い方になるのをお許しいただこう。何よりも、一種の憑依状態から繰り出される言葉の輝きであり、同期と異化の絶えざる往還であり、道化役に徹するアイロニーの切れ味であり、それらが一瞬のうちに反転し、目から鱗、胃の腑にすとんと落ちる箴言の数々である、と。(引用ここまで)
ま、私にしてみたらこれでもまだまだいきみ足りないとは思うが、学者が一人の熱いドストエフスキーファンに戻って語っているように感じた。学者という立場上、個人的な感情は日々抑え込んでいなければならない。そういう意味で、縛りのない齋藤氏の天真爛漫なドストエフスキー解釈を亀山氏はちょっと羨ましがっているのかもしれない。
いずれにせよ本書を通過した事で、次から安心してアカデミックなドストエフスキー本に進める。さらに奥深い味わいはきっとそこにあるのである、チーズのように。
ドストエフスキーとは関係ない「癒し」本
★☆☆☆☆
この著者の本を初めて手に取った。それはひとえにドストエフスキーがタイトルにあったからだ。ベストセラーをいくつか連発していたらしいお調子者という印象しかなかったが、本書を読んでみてその印象が正しかったことを確信した。
本書の中身はドストエフスキーの作品に登場する人物たちを材料にしているが、端的に言って、ドストエフスキーやその作品群とは何の関係もないと言わざるを得ない。
著者は本書冒頭の章で、現代日本人が「癒し」を求めることに疑問を呈し、癒しのビジネスに乗せられているのではないかと書いている。さらに、現代日本人は疲れているから癒しを求めるのではなく、エネルギーが捌け口を失って体内に充満しているためにイライラしているのではないかという。そのため、このエネルギーを噴出することが必要だというのだ。
まず、著者齋藤の本のコンセプト自体が、「癒し」ビジネスに乗っかったものである。さらに彼が指導しているらしい学生をはじめ、多くの若者がエネルギーの捌け口を求めだしたとき、
まずは彼齋藤自身が彼らの吊るし上げに遭うだろうことに、齋藤は全く無自覚である。
エネルギーを噴出させれば、スッキリ眠れるなどというのは、ドストエフスキーのどこをどう読んだら出てくる文句なのか?
著者のドストエフスキー評価は、登場人物の「過剰さ」だということだが、本書全編に漂うのはテキストとしての面白さを彩るキャラクターへの好みというだけである。ドストエフスキー的人物が、どういう文脈で、またなぜ生まれたのか、彼らを存在せしめた社会的な要因は何かなどということにはまるで興味がないらしい。
これまた、齋藤のコンセプトらしい「使える」路線の最たるものだ。「人間力」などという珍妙な言葉にそれが明白に現れている。
ドストエフスキーの過剰な登場人物のエネルギーの放散に対して、齋藤は「出る杭は打たれる」などということわざを当てている。これは誤用であるとともに、彼の立ち位置がわかる。
ドスト的過剰を、「限界を超えて仕事にのめりこむぞ」「超個性的な発想で他に抜きん出るぞ」という実用一辺倒の自己啓発的な文脈で使おうとしているのである。
そういえば、読んだわけではないが「使えるゲーテ」みたいな本も書いていたような気がする。メフィストフェレスでも使えるものは何でも使うぜ! 毒食わば皿までの誠に浅ましいスタンスだ。
というわけで、本書は何でも利用してキャリアアップしたいという自己啓発、自己責任、自己管理イデオロギーで「勝ち抜き」を志向する思考停止、癒し系の1冊であって、ドストエフスキーは「刺身のツマ」あるいは「虎の威」の類である。
ゲーテもフロイトもその他「声に出して」とか齋藤の本はまるで読んではいないが、彼の本が売れるのはそれが癒し系の本だからということがよ〜くわかった。
亀山学長はどうしてこんな本を褒めるのか理解に苦しむ。それが世間というものか。