史料批判、史料吟味能力の欠如が論争を呼び込んだ書
★★☆☆☆
本書読後、安川の「福澤諭吉を批判したい」「福澤諭吉を断罪した」「先行研究者の丸山真男、羽仁五郎他を批判したい」「司馬遼太郎は嫌いだ」との底意と安川が信奉するイデオロギーが見えてしまう作りの一冊です。スターリン全盛期のソ連、文化大革命期の中国もかくあったのかと想像させる憑依した文体が読む者を疲れさせます。本書は、後述の平山洋氏より論破されるために生まれてきた書と言ったところです。平山洋氏の主張は後に『福澤諭吉の真実』(文春新書 2004/08)にまとめられている。
安川の本書と平山本を比較し、各版(福澤自身によるものと、福澤没後のもの)の『福澤諭吉全集』他初出紙誌史料に対する吟味の姿勢、史料批判能力から、判定は平山の技ありを思わせる。
史料の吟味能力を鍛えず、福澤生前の『全集』と後の編纂による『全集』の差異の意味を考えそれに気付き、他の資料にもあたる基本的な動作の忘却が、大きな汚点を呼び込み、一躍「著名」となった一例です(安川・平山論争)。全集編纂者・先行研究者の負の遺産に安易に追従した安川の責任は、指弾されてしかるべきでしょう。
己の論の根拠とした資料が砂上の楼閣であった時、研究者はどのように対処すべきか、その身の振り方を含め難儀な問題です。
さて、潔い安川を見たいが、2010年現在(参照:『週刊金曜日』8月27日号■安川寿之輔・名古屋大学名誉教授に聞く/虚構の「福沢諭吉」論と「明るい明治」論を撃つ /歴史を歪めた丸山眞男と司馬遼太郎の「罪」)も無理な模様です。
次に企画される『福澤諭吉全集』は、慶應義塾等の手により福澤自身による『福澤諭吉全集』に回帰すると思われます。