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大森荘蔵 -哲学の見本 (再発見日本の哲学)

価格: ¥1,365
カテゴリ: 単行本(ソフトカバー)
ブランド: 講談社
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思考と知覚の違いを電子と心で考える ★★★★★
“「電子」という概念が持っていると考えられる、直接概念に還元されない意味、それは何なのか、それがはっきりしないのである”(p.15)というが、量子力学によれば、電子は粒子なのに波の方程式に従って振る舞う存在なのである。だから、粒子といえども直接観察はできず、様々な相互作用からその存在を類推せざるを得ない。しかも、面白いことに多数の電子が相互作用を起こすと強い相関作用が現れる。多数の電子が干渉を始めると区別不可能な一卵性電子群に変容するのである。
そんなことを思いながら本書を半分まで読み進んだ段階であるが、今日、オスカーを受賞した『おくりびと』を映画館で観た。映像シーンに何度も笑ったり涙を零していたのだが、単なる映像でしかないのに、なぜ観客の心がこんなに反応したり共鳴したりするだろうかと考え続けていた。
そのとき、“過去も未来も断ち切って現在ただいまの切片だけを残すことを、大森は「意味切断」と呼んだ”(p.30)という文章に、ブッダのAnapana-sati(安那般那念=気づき=mindfulness)を連想したことを思い出した。意味切断とは気づきと似ていると感じた瞬間である。
そのとき、映画で心が喜怒哀楽を知覚して共感するのは、心が電子と似ているからではないかと感じたのである。電子よりも遙かに波動性に偏った存在である心を直接観察することはできないが、様々な相互作用で心の存在を実感できる。だとすれば、電子の場合以上に、心がたくさん集まれば相互作用を起こして激しい相関作用が現れてもおかしくない。フィルムの一コマは、意味切断の記録なのかも知れない。
そう考えれば、ブッダが形而上の「思考」に時間を費やすことを否定し、気づきという「知覚」に時間を費やすべきことを勧めた理由も理解できるような気がする。本書の他我問題で論じられている不可能性なども、気づきという知覚を深めれば、哲学者が考えるのとは異なって、映画のシーンに観客が共鳴したように、他人の心が本当に知覚できるのではないだろうか?
学問の場はサービス産業か?何かを学ぶということ。 ★★★★★
誰かの業績を紹介した入門書の体裁をとっていますが、
評伝ノンフィクション的迫力すらあります。この類の書としては
名著だと思います。
大森さんの著作は「新視覚新論」を学生時代に読んだきり。
野矢さんが師匠?をどう語るのか、その一点の興味だけで読みました(笑

大森哲学にまだ触れたことのない方も、そもそも哲学を学ぶとはから
はじめたいとお考えの方にも、格好の「入門書」といえるでしょう。
哲学史を学ぶのと、哲学を学ぶことの違いが分かると思います。

あとがきで、大学(学問の場)のサービス産業化について、チクリと
くさしてます。産業直結型の理学部等と異なり、実学とは程遠いイメ
ージの哲学ならではの戸惑いと歯がゆさ。もしかしてもう二度と
大森さんのような意味での哲学者はでないのでは・・・という著者の
せつなさが伝わってきます。
哲学に向いてない読者の感想 ★★★★☆
この本を読んで、大森の問題意識やこだわりの在りかが良く分かった。その点著者は基本的に共感を持って書いているし、好意的に受け入れる読者も多いと思う。しかし私自身は大森や著者と問題意識を余り共有できなかった。
他我問題を例にあげると、著者はこの問題に関する大森のキー概念である「アニミズム」「虚想」「言語的制作」について解説し(この解説自体はすばらしい)しかしまだ他者の意味についての日常的理解を十分に掬いきれていない、実感に届いていないと評価し、大森自身も最後まで不満を残していただろう、と述べる。
確かに、他人の痛みは(たとえ自分のことのごとく感じて同情したとしても)自分の痛みでない以上、自分には痛くも痒くもない。しかしそれを認めたからといって「鉄壁の孤独」という著者の表現はどうか。自分の痛みであっても、過去の痛みの想起や未来の痛みの想像は、痛くも痒くもない。それでも冷汗が出るような切実なものでありうる。他人の痛みも同レベルのものと理解することで、自他対称性の実感に関しては十分ではないかと思う。個人的には、自分にとって他者の意味とは、他人に対する反応・態度・対人感情・対人スキルなどといったものの総体で、それでもう沢山という感じだ。
他我論だけでなく知覚論や時間論についても、著者の解説は文句なしだが大森に共感はできない。これが「哲学の見本」なら、自分は哲学には向いていない(実際その通りだと思う)
哲学するという喜びを教えてくれる書 ★★★★★
哲学に一度ぐらい興味を抱いたことがある人は、読書好きならば多いはず。ただ、結局厳密かつ、難解な専門言語や、回りくどくさらっと読めずいちいちひっかかる言い回しなどに挫折した人は多いはず。もちろん、哲学の醍醐味はその思考の精緻さ・過程にこそあるので、そのような書き方も必要な部分なのだろうが、その敷居の高さから哲学嫌いになってしまうとしたらもったいない。ぜひこの本を読んでもらいたい。

平易な文体、文調に直しつつも、難解な思考過程は温存している。著者がガイド役として、読者とともに大森氏の哲学のスリリングな深化過程へと誘ってくれる。何がどうして深化したのかということを単に解説してくれるのみならず、著者のその考え方に対する留保も附せられ、読者は読み進めることで否応なく哲学していることにふと気づくはずである。こういう本がもっともっと出れば哲学好きな人は増えるだろうにと思う。
限界があることを知る ★★★★★
中島義道は『哲学者のいない国』のなかで、大森荘蔵を数少ない日本の哲学者として取り上げていた。ニッポンのほとんどの哲学者といわれる人たちは、「哲学」学者であると。
野矢茂樹の新著は、この哲学者・大森荘蔵の問いを問う結構で、流行もなく廃りもない哲学、他我問題、つまり汝と我への問い、二元論のパラドックスの問題と、大森が飽きもせず不断に考え抜いた哲学をこれまた丁寧に追いかけている。
大森の哲学は我々サラリーマンから見ると脱俗的なものではないかなどという先入見が全くの浅はかな考えであることが、この真摯な解説書でもよくわかる。「他者は理解できるのか」という強靭なそして手ごわい問い。大森の問いには、それが一本貫徹しているのだ。
文章は平易だが、大森および野矢の論理は決して易しくない。時々、脳みそがむずがゆくなるような根源的な問いが問われているからだ。近頃、「問題解決」がスッキリ出来るとか、一発でわかるとかを詐称する、思考停止の安心原理に乗っかった書籍が多いが、そんなもの大半が嘘である。本書のタイトルは、『大森荘蔵〜哲学の見本』であるが、これは考えることの見本である。何も難しいことを考えることの見本ではない。
目の前に問題があり、それを解決すれば次のステップに行けるというような問題は確かに日常的にある。しかし、当該の問題を解決する過程でポロポロわが手からこぼれ落ちるものがある、という認識を持たない人々が問題を「ビジネス」とのみ見てしまう。利益を上げなければならない。その通りだろう。固定費を削減するためには、人を切り、安全もそこそこにというビヘイビアも問題解決の一法だ。然り。しかし、今日の多くの問題は、こうした精神、こうした反知性が根本原因としてあるのではないか。そして、そうしたこぼれ落ちる問題は決して難解な問題ばかりではない。
本書は、サラリーマンこそ手に取らなければならない。それは、考え抜けば答えが見つかるといった実利を求めるものでもなく、物事を知ったり、作ったり、為したりする人間の「知性」の在り様とその限界を知るために必要なマナーの問題なのだ。このマナーを知れば、あまりに無茶苦茶な虚偽や排除や傲慢やが決して割に合うものではないことが、少しくらい分かるはずであり、ここまで下劣な事態にはならないと考えるが・・・。甘いだろうか?