告白の不可能性 漱石の精髄
★★★★★
漱石小説のテーマが倫理(他者との関係)から存在論(自己との関係)へとシフトする過程で、構成的破綻に陥る事を許容し、むしろ讃える言葉に、非常に共感。内面が疑われ、解体し、もはや作家も読者も文学に自己を託さなくなってしまうような中、それでも漱石の中に潜む存在論的な主題を掘り返す批評家のモチベーションは、彼自身の生き方をそのまま漱石(やその他の文学)に託している事で維持されているのか。
東浩紀は『郵便的不安たち』収録の文芸時評で「私小説が多すぎ。皆、自分の事しか書けないの?」というような事を言っている。一方、柄谷は『反文学論』で「一歩踏み込めない感じが惜しい。私小説でもいいから、殻を破ってほしい」というような事を言っている。新旧二人の批評家の態度の違いは、文学の役割が変わってしまった事をそのまま示しているようだ。東と違い柄谷は、文学に自己を託す事を諦めていない。だからこそ、漱石の構成的破綻を許容し、技巧的完成以上に実存的問いへと深化するその姿勢こそ最も評価されるべきと熱心に言っているのだろう。
「いい気な自意識が漱石がとうに苦しみ抜いた過程を薄っぺらに辿り深刻ぶってみせる光景は今も昔も変りはしない」
「告白の不可能性を探っていけば、我々は欺瞞や自尊心のかわりに、この世界で人間が存在するあり方そのものに眼を転ずるほかない。漱石は告白をいささかも信じてなかった」
「漱石は人間の心理が見えすぎて困る自意識の持主だったが、そのゆえに見えない何ものかに畏怖する人間だった」
半端な独白で内面を託したと思い込む数多の凡庸な小説への警鐘に、漱石に比べれば赤子のような我々もまた畏怖してしまう。