これ面白い??
★★☆☆☆
著者は定義する。「他者」とは対話不能な相手であり、つまり言語ゲーム
が成立しない相手のことをいう。互いに背景(規則・コード)の共同性がない
状態のことだ。プラトンの対話も互いに了解しあえるという意味で
言語ゲームの「内輪」であり、言語ゲームが成立しえない「真の他者」ではない、
とする。
著者にとってみれば、ソシュールもヤコブソンも構造主義もハイデガーも
プラトンも現象学もすべてお互いに了解可能な「内輪」ゲームとして成立しているに
すぎない、これらを独我論だと批判している。相手が了解「不可能」な「真の他者」
ではないから「独我論」だと。
さて普通に疑問に思うのは、どうして「他者」をそういう極端な定義を
するか、そして哲学史のほとんどを「独我論」として論難したいのだろうか。
明確な方向はない。ただ文章の端々から感じられるのはムラであれ国家であれ、
とりあえず「共同体」なるものを相対化したい、もっといえば「国家のある種の否定」
が著者には確実にある。
つまり著者の批判対象は「規則」内で成立する言語ゲーム=国家(共同性)であり、
なぜそれを批判するかというと、了解不可能な「真の他者」と向き合えてないからだ。
(著者にとって真の他者は何でもいいらしい:というか意味不明ですよ)
とりわけ著者は「規則」という言語ゲーム成立に不可欠な「歴史的伝統性」を
拒絶したいらしい。共同性の領域内で形成される「歴史的伝統性」に裏打ちされた
「規則」つまりは「先了解(規則・コード・文法・過去から来るもの)」を拒否した
いらしい。つまりは国家的なものを排除したいらしい。
確かにウィトゲンシュタイン解釈は自由だ。しかしどうして反国家・反ムラなのか。
それがよき「生」に繋がる「哲学」「知」の営みになるのか?
思うに、ならないだろう。
<外部>の思考
★★★★★
この本は「外部」もしくは「他者」について書かれた本である。
ここでいう「他者」とは、例えば外国人であり動物でもよい。そういった「他者」との間には我々が普段意識しているコミュニケーション「話す-聞く」といった関係は存在しない。そこに存在するのは「教える-学ぶ」という非対称な関係であり、共通の規則(コード)は存在しない。
こうした「他者」の想定は当たり前のように見えて、実はあまりなされてこなかった指摘である。そもそもデカルト主義にはじまる西洋哲学は「内省(モノローグ)」からはじまり、コギトの確実性に至るが、上記のような「他者」は存在せず、「対話」は存在しない。例えば、現象学は独我論に終始しているし、サルトルの他者も言語ゲームの成立(他者の眼差し)を前提としているために「他者」ではない(サルトルの他者の眼差しは猫の眼差しでは駄目なのである)。
一方で柄谷は、哲学史上、このような「他者」の必要性を指摘した人物を挙げている。デカルト(≠デカルト主義)、キルケゴール、マルクス、ウィトゲンシュタインである。
デカルトは共通のコードを疑う、方法的懐疑を実践し、キルケゴールは「他者」としてのキリストをキリスト教世界に導入しようとした。マルクスは商品の価値形態を「売る-買う」の非対称な関係に見出し、貨幣という「他者」を導入する。ウィトゲンシュタインは前期から後期にシフトする上で、「他者」を導入し、そこでの非対称なコミュニケーションの可能性を検討した。
柄谷は上の4人の哲学者を並べ、その思想における「他者」の重要性を指摘し、それらの思想をパラレルに分析していく。その手法の鮮やかさは一読に値する。
他者の他者性をめぐる「命がけの飛躍」
★★★★★
柄谷は他者と《他者》を区別し、前者を自己との対称性に基づく他者、後者を自己との非対称性に基づく他者と定義する。柄谷によれば、内省から出発する従来の哲学は自己と他者の対称性を前提とする「話す‐聞く」モデルを暗黙のうちに採用しているが、そこで見出される他者は自己と同じ言語ゲームに属している他者であり、結局のところ他者はもうひとつの自己にすぎなくなる。その点で従来の哲学はモノローグ的な独我論におちいっている。
それに対して柄谷は、自己と他者の非対称性を前提とする「教える‐学ぶ」モデルに依拠することで《他者》、すなわち他者の他者性を回復させようと試みる。この《他者》は自己と同じ言語ゲームを共有しない他者であり、自己の外部に位置する他者である。このモデルにおいては「教える」自己と「学ぶ」他者のあいだに根本的な非対称性(「命がけの飛躍」)が措定され、そこではじめて非対称的な自己と他者とのあいだの対話(イロニー)について考察することが可能となる。
柄谷はこうした独我論から対話へのモデル転換の契機をデカルト、キルケゴール、マルクス、ウィトゲンシュタインのなかに見出す。その論理的切り口と接合方法は鮮やかで、現在、独我論や他者といった問題を考えようとするなら、この著作で提起された視点を避けて通ることはできない。
発見は喜びに繋がり、理解は支配に繋がる。
★★★★★
アカデミックな言葉から漏れ生づる、アツイ鼓動は何なんだろう…と思う。実際自分は柄谷をこの本でしかしらんのだけど、この他者論は忿懣やるせないようなアツイ情熱で隅から隅まで詰まっていて、両手で塞いでも今にも溢れ出しちゃいそうな、そんな印象を受ける。ほかのレビュアーさんが言うように、安易な人間関係HOWTO本よりよっぽどイカス、危機迫りゅ。
でもさ、でもさ、命懸けの飛躍、他者と自分を隔てる断崖に、真っ正面からとびこむことばかりに意味があるってのは違うんじゃなくね?成熟ってのは宥めたりすかしたり、距離を測ったりしながら、他者と時間と利害関係を共有することなんじゃなくね?真のコミュニケーション、真の恋愛、真の人間関係とか、そーゆーの考え出すと、ニーチェが鼻つまんでウゲウゲウゲウゲ言うような、アレなニオイがしてくるぜ!ってアレってのが何なのか本当はよくわかりませんが。ええ、アレもコレもよくわかりません。他人も時間も。むろんこの本も。
でもコレを読む価値は十分にあります。
卓抜な解釈、キルケゴール再考を促す
★★★★☆
著者の各思想家への解釈は良く言えばユニークだが往々にして牽強付会で且つ政治的で余り好きではないが、このデカルト論は日本の哲学解釈の中では白眉ではないかと思える。こう読まなくては、デカルトは必然的にお蔵入りになってしまう。著者は若い頃から文学の解釈では動物的な勘ともいえる鋭い指摘で並外れていたが、哲学の場でそれが改めて証明された感じだ。「他者」の問題よりも、自分としては、その裏側にある「単独者」の問題が非常に魅力的に感じた。もう一度キルケゴールをきちんと読めそうな気がしてきた。「他者」論は見事な指摘で、一瞬の「異質感」というあの感覚を指しているわけで、これを従来のコミュニケイション論や相互行為論に取り込んでしまっては実も蓋もない。しかし、現実の生活からいうと、むしろ著者の指摘は当たり前であって、あまり革命的な感じは無い。安穏と権威の中に居ると想定される一部の大学人にはショックかもしれないが、現場の人間は日々否が応でも「他者」に直面せざるを得ない。まさに毎日が、この商品は販売契約が成立して初めて100円なのだ、という「命がけの飛躍」の連続だ。「時代の診断」まで出来なくても、何がしか新しい視座を示すことが人文系の作品の優劣を示すとすれば、如上の理由から、本作品の線の細い点は否めないと思う。