柄谷行人の矛盾と「可能性の中心」について
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ほぼ20年ぶりに再読した本書である。今回読み直して良かったと思うのは、本書の内容をある程度相対化して距離を持って読めた点、更にそれでもこの本に学ぶものが多かった点である。
「交換」「世界宗教」「他者」等のキーワードの下に、デカルトやスピノザ、フロイト等の哲学を軸とした広範な思考が展開される本書は、柄谷行人のキャリアハイに相当する濃密な思考が展開される。一方で、個別に各々の哲学者を研究している読者からはアラが見える解釈をしている点も否めないだろう。そういう批判については、「だって柄谷行人を読むということはそういうことなのだし、面白いということがまず大事なのだ」という立場の僕は他のレビュアーに譲る。(僕だって彼のスピノザ解釈には判然としないところがある。)だとしても、例えば本書の中ではこんな矛盾がある。
「私が「探求」の連載で問いつづけてきたのは、「間」あるいは「外部」において生きることの条件と根拠だといってよい。それはいわば超越論的であると同時に「超越論的動機」そのものを問うことである。むろん、これはたんに理論の問題ではなく生きることの問題だ。」(368p、あとがき)
一方で、その「超越論的動機」をタイトルに持った本書9章ではこんな言葉も出てくる。
「たとえば、日常的にもの(客観)が私(主観)の前にあるという考え方を否定するならば、ひとはまず生きていけない。その自明性をとりあえず還元(カッコ入れ)しようとするのが超越論的ということであって、本当にその通りに生きてしまえば、分裂病者になるだろう。」(222p)
本書ではこの矛盾は決着せず、それは後の著作と活動に持ち越される。ただ、幾分分かり難く書かれてはいるが、この本で彼が指摘したのは、超越論的に文字通り生きることは不可能だとしても、そう生きたいという「動機」は存在する、ということである。そして、敢えてそうしたいという「動機」が当時の柄谷(と読者の僕ら)にはあった。柄谷自身はそんな自分の矛盾を押し詰めた結果、NAMとその崩壊に向かって半ば必然的な歩みを続けた。(だって不可能なことを語りながら運動しようとしてたんだもん。)一方で、自分なりに柄谷とは違った思考をしようとしている読者には、本書における思考はやっぱり「過程」であるがゆえに「可能性の中心」を持つだろう。この本はタイトル通りそんな「思考過程」の本なのだ。この思考の密度に対して僕は星を5つ点ける。そろそろ、柄谷個人のヒストリーからこの本を自由にしてあげてもいいんじゃないのかな。
スピノザによるトランスクリティーク
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最近柄谷の『探究2』を読み直している。
この時期はまだ交換ではなく交通がキーワードだ。
「スピノザの『エチカ』のオプティミズムは、フロイトのこのペシミズムとちょうど表裏の関係にある。‥…一方では、希望・意味をもたないがゆえにペシミズム・ニヒリズムにみえ、他方では、絶望・無意味をもたないがゆえにオプティミズム・信仰に映る。」
(講談社学術文庫『探究2』柄谷行人pp189)
スピノザの理解において傑出しているこの本は、スピノザとデカルト、スピノザとカント、スピノザとマルクス、スピノザとフロイトのトランスクリティークである。
同種の考察は『異端の系譜』( イルミヤフ・ヨベル)でも見られたが、柄谷のそれはより徹底している。
柄谷は論理学をつきつめることで論理学から逸脱し、スピノザを神という公理系(観念)から表象=概念=想像知を批判したとするのだ。いろいろな研究書を読んだが、ここではじめて『エチカ』の幾何学的記述が必然性を持つことが納得させられた(pp168)。
「境界」に立ち続けた(pp316)フロイトに関する考察は、定本第4巻に引き継がれるが、カント、フロイトへの無条件の賛美を持たないこの時期の柄谷はやはり突出している。
相互主義的に社会契約において自然権を留保したスピノザ、、、(pp196)、NAMのような社会運動の試みもまたスピノザに関する考察が基盤をなしている『探究2』の公理系=原理から再出発する必要があるだろう。
スピノザは以下のように言っている。
「理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である」(Eth.4, Prop.73)(スピノザ)
誤解に基づく暴論
★★☆☆☆
心に決めた女性に婚約指輪を差し出した後、普通は「結婚して下さい」かそれに類する求婚の言葉を重ねる筈なのに、求婚する事の不安を当の相手にうち明ける――柄谷行人はそんなちぐはぐな事をしている。行為の上では既に決断は既に為されてしまった筈なのに、言葉の上ではするか否かで迷っている。行為の時間と言葉の時間がずれている。これは本作だけではない、柄谷の著作全ての問題だが、本作にはその上論の根幹であるキルケゴールの単独者についての誤解がある。キルケゴールは実存の段階を四つに分ける。私は優れている――これは美的、私は田中だ――これは倫理的、私はある――これは宗教的(A)、私はなる(クリスチャンに)――これは宗教的(B)。柄谷が取り上げるのは実存の倫理的段階であり、それだけならキルケゴールを引き合いに出す必要は別にない。確かにイエスの名はクリスチャンにとって代え難いものだが、それは本来肉体を持たない筈の者が肉体を持って現れ、さらに負うべくもない確定記述素を全て身に受けて死んだ――そうした人の名であるからだ。それ以外の名は自分の名も含めて全く問題にならない。キルケゴールの試みは、キルケゴールの名もレギーネ自身の名も問題にならなくなるような仕方で、レギーネをイエスと結びつける事だったのだが。よく読み直して論を立て直すべきだ。
ベルクソンを超える
★★★★★
探求IIの章立ては逆転しています。
連載時は第3部の方が突破口でした。壁はベルクソンだったと思います。
あの、宗教論を、「道徳と宗教のふたつの源泉」を越えないことには一歩も
前へ進めなかったと思います。ドゥル―ズがとば口をこじ開けたのは、あっ、
と感じられました。けれども、超えられたのかどうかは確信が持てません
でした。
この探求IIが、(しつこいようですが、雑誌連載時は、最終の第3部の方が先です)
突破したのは明らかでした。同じ日本人として、真に誇りが持てた瞬間でした。
超越性ということをあの世からこの世に奪還し、深遠な宗教の問題を実践
の問題に、現世の倫理の問題に差し戻したのです。
別にいんじゃない。
★★★★★
>挫折ばかり問題にして現実を知らず
ニーチェのことですか?