柄谷行人の本はいつも最後まで読めない。途中で勝手に思考が働きだして、律儀に文章を追うのがまどろしくなる。それほど刺激的であるということだ。ずいぶん以前、無理をして一気に最後まで読み切り、頭がぐちゃぐちゃになったことがある(『近代日本文学の起源』)。細部の刺激がなぜか全体を構想させない、というか独特の屈折と反語と否定に満ちていて、猛スピードで運動し続ける精神についていけなくなる。
本書は講演録なので比較的楽だったが、小旅行の車中で一気に読み、やはり頭がぐちゃぐちゃになった。(もしかすると柄谷は分裂病者なのかもしれない。常に言葉を秩序づけて排出し続けないと、失語症か誇大妄想に陥ってしまう危機を内部に抱いているのかもしれない。)細部は異常なまでに明解なのに、細部と細部が有機的に全体を構成しない。微分はあっても積分がない。それが批評ということか。