唯一の現代史にふれた講義
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最近思うことは、フーコー自身が遺言で禁止したということを含めても、思考集成や講義集成の刊行を待ってはじめて「構造主義」の一端はわかるのであり、それはラカンのセミネールが完結しなければ本当はわからないだろうとの絶望あるいは失望、喪失感を感じる。
現代にも繋がるような自由主義の問題について語られている。戦後の占領下のドイツ自由主義にはじまって、そのフランスへの影響、アメリカの自由主義についてふれ(ハイエクは当然として、ハイエクが影響を受けたマイケル・ポランニーの『自由の論理』等が参照されている)、「ホモ・エコノミクス」、一人一企業であるような主体、非経済的領域も投資や資本のタームで解析されるような、完全な市場によって追求されるような理想社会の図が、国家政府は市場に介入するのではなく市場を整備し、市場を完全に機能させるためのゲームのルールの維持のみを行う、そのような自由主義の究極の企図といったものが挙げられる。そしてそのような構成から「市民社会」という対象が析出されていくさまを描写して終わりにしているが、そのような題材を取り上げる必要性の例として、ファシズムやスターリニズムの「全体主義」に対する自由主義陣営の批判が、画一的でありとあらゆる批判のタイプを一緒くたにしてしまい、分析力を失っていることを指摘している。講義でのフーコーによると、全体主義は国家の強化、権限の増大の問題ではなく、党による国家の縮小の問題なのである。
現代につながる地平を取り扱った唯一の論考に見える。その重要度ははかりしれないのではないか。