近代の統治制の対象としての人口とドゥルーズとの決裂
★★★☆☆
重商主義、重農主義等の政治経済学を経由しつつ、「人口」という新たな対象が国家統治制の問題として西欧の歴史に登場する。この「統治」概念の歴史として司牧が分析され、「魂の司牧制から人間たちの政治的統治へと」再び国家理性から統計学をへて人口の問題に戻ってくる。
内政としての経済政策の対象としての人口。この講義以後人口と絡めて触れた現代自由主義の問題をとりあつかい、更にそれ以後は司牧の問題に戻ってゆくことにある。
原書に付された「講義の位置付け」には、当時の左翼的思想の歴史的経緯と、「ミシェル・フーコー伝」では曖昧に和解させようとしているドゥルーズと決定的決裂を迎えた事情について書いてある。
安全社会が持つ問題をファシズムで片付けないことがフーコーにとって重要で、反ファシズム闘争から自己正当化するテロリズムの拒否もこの流れにあり、テロリズムを支持するドゥルーズ等と決裂し、「フーコーはガタリがまわしてきた請願書に署名を拒否した。」と説明されている。
つまり新しい権力論を作ることを問題にするフーコーと、旧来のマルクス主義的権力論図式からまるで抜け出てないドゥルーズとの対立である。