著者はこの本の中で、終始一貫して「翻訳とは何か?」を自問自答しつづける。そしてその答えをさまざまな事象にたとえることで、翻訳という行為の本質を読み手に伝えようとする。
そのたとえ方がじつに発想豊かで、ウィットに富んでいる。彼女が用意した答えは、料理の灰汁抜きやショートパスタ、合気道にマラソンランナー、さらにはクラシックバレエとくる。著者はかつて翻訳業の傍ら、カルチャー誌でインタビュー記事を担当し、200人近いいろいろな職業の人たちに会ったという。その経験があらゆる物事と、翻訳業との接点を見出す下地を醸成したのだろう。
折々で触れられる読書歴の、その幅広さと奥行きの深さにも驚く。といって書斎にこもってばかりはいない。『嵐が丘』の舞台を自分の足で確かめ、それを翻訳に生かそうとする行動力と情熱をも見せるのだ。文学や翻訳にたいする、著者の情熱の深さと誠実さがひしひしと伝わってくる1冊である。(文月 達)
誰もが自分と同じ感受性と知性を持っていて、他人というものは「話せばわかる」相手なのだ、という前提の下に生きている人にとっては翻訳という作業の困難さは想像できないだろう。
現実は、自分と同じ感受性と知性を持った人間などいないのである。気持ちは容易に伝わらず、感情の微妙な行き違いのなかで違和感を残しながら生活をしているのである。ただ、多くの人は、そのような状況を認識することなく、心地よい誤解にまみれて長い一生を生きるものなのだ。
一方で、翻訳者とかフリーランスの物書きといった人々には自意識過剰の性向があるように思われる。世間から認知されていない人が多い世界なので、せめて自意識くらいは高めておかないと生きてゆけないという状況もあるのだろう。彼らの文章はどこか独りよがりで、世間一般の人々にとっては理解不可能であることも少なくない。読み手あっての文学であり、翻訳であるはずなのだが、高見に立って読者を見下ろしていたり、読者と没交渉に自分の世界に入り込んでいたりする文章も少なくないように思う。
この本の著者や対談に登場する別の翻訳者にそうして偏狭さは無いだろうか?どのような読者を想定してこのエッセイを書き、何を意図して対談を載せたのであろうか?
この本は著者の翻訳仲間へ向けて書かれたものであるように思われる。一般の読者へ向けて書かれた割には、翻訳の苦労話や裏話がわかりにくいのである。この本に限らず、翻訳者といわれる人が書いたもののなかには、読後にある種の違和感が残るものがあるように思う。
『暗い、悲しい、寂しい、というイメージばかり表だって言われているけれど、「この小説、けっこう笑えるんじゃないの?」と思ったのだ。ともかくも、初めて『嵐が丘』の味をおいしいと感じたのだろう。わたしと『嵐が丘』も長い歳月を経てだんだんと歩み寄り、ようやくおいしく味わえる地点に辿り着いたのだ。』(P115)
『おいしく味わえる地点に辿り着いた』とは、御同慶のいたりとしか言葉がないが、この鴻巣の『感性』に引っ張られる読者は不幸のどん底に突き落とされることになる。鴻巣の感性ではコメディーとなってしまうらしい『嵐が丘』は、確かに、彼女の杜撰な暴れ子犬のような訳では低級な茶番となってしまっているのだから。
驚いたことに、こうした訳を誉めているのが、この本の巻末に登場する柴田元幸なのである。
『鴻巣さんの訳を最初の百ページ拝読して、すごく面白かったんです。』とか、鴻巣が使っている老人言葉を『僕はあのままで断然いいと思いましたよ』とまでへつらっている。いくら翻訳仲間が互いに誉め合うものだとはいえ、鴻巣のこの翻訳本を絶賛するとは……
それにしても、この柴田がポール・オースターの殆どの本を訳している。
つまり、ボール・オースターも原書で読まなくては、『翻訳者の感性に汚染されてしまったトンデモナイ作品』になっている可能性があるということを知った。