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翻訳のココロ (ポプラ文庫)

価格: ¥546
カテゴリ: 文庫
ブランド: ポプラ社
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   トマス・クック『緋色の記憶』やクッツェー『恥辱』などの訳書を手がけた気鋭の翻訳家が、翻訳という仕事の本質とその周辺、そしてそのおもしろさについて語ったエッセイ集。巻末には同じく翻訳家、柴田元幸との対談も収められている。著者は英米文学翻訳家でもあると同時にコラムニスト。2003年に新しく訳出して話題になったイギリスの古典『嵐が丘』の翻訳楽屋話もたっぷりと披露されている。

   著者はこの本の中で、終始一貫して「翻訳とは何か?」を自問自答しつづける。そしてその答えをさまざまな事象にたとえることで、翻訳という行為の本質を読み手に伝えようとする。

   そのたとえ方がじつに発想豊かで、ウィットに富んでいる。彼女が用意した答えは、料理の灰汁抜きやショートパスタ、合気道にマラソンランナー、さらにはクラシックバレエとくる。著者はかつて翻訳業の傍ら、カルチャー誌でインタビュー記事を担当し、200人近いいろいろな職業の人たちに会ったという。その経験があらゆる物事と、翻訳業との接点を見出す下地を醸成したのだろう。

   折々で触れられる読書歴の、その幅広さと奥行きの深さにも驚く。といって書斎にこもってばかりはいない。『嵐が丘』の舞台を自分の足で確かめ、それを翻訳に生かそうとする行動力と情熱をも見せるのだ。文学や翻訳にたいする、著者の情熱の深さと誠実さがひしひしと伝わってくる1冊である。(文月 達)

気楽に読める翻訳の苦労話 ★★★★☆
 女性翻訳者が綴ったエッセイを纏めた本。気楽に読めて面白い。自分が感じるままに極めた翻訳のココロ。そのココロとは?

 彼女は「嵐が丘」という19世紀の英国小説を訳すための取材として北イングランドや、フランスに紀行に出かけてはワインセラーを巡る(脱線しすぎ!)。翻訳とは直訳だと伝わらないが、意訳しすぎるとやり過ぎ。落としどころが難しい。特に小説は。

 「wine持ってこい」のwineをワインか、酒か、ぶどう酒とするか延々悩む。ワインだとお洒落な印象になってしまうが、時代背景を考えると違う。さて彼女はなんと訳したのでしょうか。
なかなかおもしろい ★★★★☆
翻訳者を目指しているかたには、ちょっと肩透かしかもしれません。
著者本人が、ホンヤク者と原文の関係について、色々なものにたとえて
いておもしろい。個人のエッセイだと思えば、いいでしょう。
私は著者が音楽と演奏者にたとえている部分が、一番しっくりきたかな
と…。読んでみたくなるような本の紹介もされているので、今後かなり
貴重な存在になるかもしれない。
あくまでも個人的見地ですので、本当に翻訳者を志している方、ちょっと
お茶でも飲みながら、一息いれるような感覚で読むとおもしろいと思い
ます。ですから、翻訳の技術本を買ったら、この本もおすす
めに引っかかってきたから…と安易に購入すると期待はずれになって
しまいます。
読み手によって評価が分かれるでしょう ★★★☆☆
翻訳者が書いた翻訳についてのエッセイ集である。翻訳というものを意識して海外の文学作品などを読んでいる人にはたいへん興味深い内容であると思う。勿論、翻訳を職業にしている人、あるいは、職業にしようとしている人にとってもおもしろく読める本である。しかし、このような人々というのは世の中では極めて少ないのではないだろうか。

誰もが自分と同じ感受性と知性を持っていて、他人というものは「話せばわかる」相手なのだ、という前提の下に生きている人にとっては翻訳という作業の困難さは想像できないだろう。

現実は、自分と同じ感受性と知性を持った人間などいないのである。気持ちは容易に伝わらず、感情の微妙な行き違いのなかで違和感を残しながら生活をしているのである。ただ、多くの人は、そのような状況を認識することなく、心地よい誤解にまみれて長い一生を生きるものなのだ。

一方で、翻訳者とかフリーランスの物書きといった人々には自意識過剰の性向があるように思われる。世間から認知されていない人が多い世界なので、せめて自意識くらいは高めておかないと生きてゆけないという状況もあるのだろう。彼らの文章はどこか独りよがりで、世間一般の人々にとっては理解不可能であることも少なくない。読み手あっての文学であり、翻訳であるはずなのだが、高見に立って読者を見下ろしていたり、読者と没交渉に自分の世界に入り込んでいたりする文章も少なくないように思う。

この本の著者や対談に登場する別の翻訳者にそうして偏狭さは無いだろうか?どのような読者を想定してこのエッセイを書き、何を意図して対談を載せたのであろうか?

この本は著者の翻訳仲間へ向けて書かれたものであるように思われる。一般の読者へ向けて書かれた割には、翻訳の苦労話や裏話がわかりにくいのである。この本に限らず、翻訳者といわれる人が書いたもののなかには、読後にある種の違和感が残るものがあるように思う。

面白かった! ★★★★★
ある特定の部分を翻訳するときの苦労話や、実際の翻訳作業の裏話がつづられたエッセイも面白いけれど、この『翻訳のココロ』では、まさにタイトルどおり「翻訳するということ」について、具体的で腑に落ちる例が次々登場して楽しめる。合気道やミニスパゲティが翻訳という行為を説明する話のキーワードになっているのだから。著者の「翻訳」に対する熱い思いや真摯な姿勢もひしひしと伝わってくる。有名すぎてなんとなく手を出さずにいた『嵐が丘』を読みたくなった。
柴田元幸にも疑問を覚えます ★☆☆☆☆
結論から言えば、この本の中に含まれている彼女の文章のどれもが「ガサツ」そのものであり、文章にもそしてその内容にも魅力が一片もない。泥まみれの子犬が家の中を走り回って喜んでいるようなものである。子犬は家の中を汚くしていることに気づかない。同じように、鴻巣も、自分の翻訳の杜撰さにはきっといつまでも気づかないのだろう、彼女の文章からは自己陶酔の臭いしか漂ってこない。
 彼女は述べている。

『暗い、悲しい、寂しい、というイメージばかり表だって言われているけれど、「この小説、けっこう笑えるんじゃないの?」と思ったのだ。ともかくも、初めて『嵐が丘』の味をおいしいと感じたのだろう。わたしと『嵐が丘』も長い歳月を経てだんだんと歩み寄り、ようやくおいしく味わえる地点に辿り着いたのだ。』(P115)

 『おいしく味わえる地点に辿り着いた』とは、御同慶のいたりとしか言葉がないが、この鴻巣の『感性』に引っ張られる読者は不幸のどん底に突き落とされることになる。鴻巣の感性ではコメディーとなってしまうらしい『嵐が丘』は、確かに、彼女の杜撰な暴れ子犬のような訳では低級な茶番となってしまっているのだから。

 驚いたことに、こうした訳を誉めているのが、この本の巻末に登場する柴田元幸なのである。

『鴻巣さんの訳を最初の百ページ拝読して、すごく面白かったんです。』とか、鴻巣が使っている老人言葉を『僕はあのままで断然いいと思いましたよ』とまでへつらっている。いくら翻訳仲間が互いに誉め合うものだとはいえ、鴻巣のこの翻訳本を絶賛するとは……
それにしても、この柴田がポール・オースターの殆どの本を訳している。
 つまり、ボール・オースターも原書で読まなくては、『翻訳者の感性に汚染されてしまったトンデモナイ作品』になっている可能性があるということを知った。