大学における教養の重要性
★★★★★
現在の大学においては、教養科目が、専門教育に対する予備としか位置づけられていない体制が生じてしまっている。さらに、学問の細分化によって、学生が身につける知識は減少傾向にある。しっかりした知の土台を作らないと、斬新な発想は生まれないだろう。そのためにも、グローバル化した現在、多様な問題を解決するためには、「教養」を身につけるのが大切なのではないだろうか。それでは、「教養」をどのようにして身につけていけばいいのだろうか。
第一に、大学に教養学部を設置し、文系理系を超え、学生が学際的に学んでいくのはどうであろうか。たとえば、物理学、生物学、社会学、歴史学、哲学の五科目を、全学年を通じ、学生がじっくりと学んでいくのである。ここでいう「教養」としての物理学は、専門の物理学とは異なり、物理学が描き出す世界の構造や、物理研究の思考形式、さらにその歴史上の発展を、文系の学生に対してもしっかりと指導していくのである。このようにして、多くの学問領域の間をつないでいくような知の体系を、学生に身につけさせることを、大学教育の中核にすえていくのである。
第二に、実利的な利害を考えずに、知識を身につけ、思想とふれあい、自分自身の思考を発展させていくために、学生は「読書」をしっかりとしていく必要がある。さらに、「読書」は思考訓練の場としても最適である。文字は抽象化された記号であるため、この文章は何を意味しているだろうか、前後の脈絡はどうなっているのだろうか、を確かめながら、一つのまとまった文章を理解していく必要があるからである。
以上のようなことが、著者の伝えたかったことの一つであると私は考えている。
うん
★★★☆☆
わかったようなわからんような。
「教養」の定義は曖昧で難しいものだという事はわかった。
腰のある文章、深い洞察の書
★★★★☆
さまざまな知識を実践の場に活用する知恵が教養だと思う。多様な学問分野が専門が細分化されている今日ほど、実は教養の力が必要なのではないか。
このような問題意識を持つ人にとって、道しるべとなる一冊だろう。
古来、文化や文明が発達した地域、時代には教養があった。たとえば、ギリシャ・ローマに淵源する欧州の知的伝統の根幹をなす自由文芸七科目(septem artes liberales)。つまり文法・修辞学・弁証法・算術・幾何・天文・音楽だ。あるいは、日本では、徳川幕藩体制が強固な時代くらいまでは四書五経など漢籍がおおむね、教養の役割を果たしてきたが、明治維新後の近代化は、伝統的漢籍に対する洋学的教養の比較優位ポジション獲得の過程でもあった。
サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』に訳した中村正直や『学問のすすめ』を書いた福沢諭吉は新しい洋学の教養をもたらしたが、その根っこは、じつのところ、功利主義(Utilitarianism)が息づいている。その後、大正教養主義や、旧制高校のデカンショ的教養主義など、いろいろあった。苅部直が『移りゆく教養』で指摘しているように、現下日本の大学で歴然と見られる教養の衰微は、これらの教養のトラディションさえも風化させつつある。
いったい現代という時代を生きてゆくには、私たちはどのような教養を、どのように身につけていったらよいのか。あくまでも自問自答となろうが、この本は、含蓄に富んだヒントを読者に語りかけている。
良書です
★★★★☆
苅部氏の文才には脱帽です。ほぼご同学と思われる竹内洋氏と双璧です。教育に携わりながら、教育や教養問題について疎い小生には大変参考になりました。アリストテレスのいわゆる「フロネシス」についても、知識を深めることができました。巻末の<資料>も、「なろほどねー」と感心することしきりです。
「まわり道」も悪くない
★★★★★
たしかに、著者が書くように、「いかなる「教養」を身につけるべきか、そのための教育制度はどういうものが望ましいのか」(p149)がなかなか出て来ない本だ。教養とは何かを考える上では、たしかに「まわり道」のように感じる。
しかし、「まわり道」は、それなりに成功していると思う。「教養」の歴史(概念は一定でない)
、現在の長野県飯田市の公民館の話(読書だけでなく、普段の生活や実践も教養の一端であることに気づかせてくれる。もちろん、読書が大事なのは言うまでもない)、メインテーマである「政治的教養」の話の詳しさなど、教養とは何かを考える上で有益な内容が多いように感じた。
ゆえに、「まわり道」を我慢して読む価値のある本だと思うので、星5つ。