ステーキを一口大に切ること
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中学の国語の先生にT先生という先生が居て、きっと当時の国語教育ではかなり名の知れた先生だったのではないかと思うのですが、授業を受ける側はそんなことなどちっとも感じず、ただ、かなり「考える」ための訓練をさせられた、ということだけが残ったことがあった。
その先生の口癖が、「ステーキは出されてもそのまま口に入れることはできない。ちゃんと一口大に切ってほおばらなければ食べられない」というのがあった。これは、物事を考えるのでも表現するのでも、しっかりと自分が咀嚼できるサイズにしてからそれを自身の中に取り入れ自身のものにしていく、という過程があってはじめて可能となることなのだ、ということを指摘してのことだったのだろう。
50年たっていまだに先生のことばが記憶にあるのを、今回たまたま村瀬さんがまさにそのことに迫り、それを越えて、生きる=食べる=考えることとして、人類史の起源まだ水鉛を下ろす思考を重ねるものとして提示していて、村瀬さん流の「自分の力で考え抜く」「自分の表現、身の丈の表現で表現しつくす」という大きな成果のように思いました。
ちなみにわたしの理解では、村瀬さんのこの「一口大にする」ということの意味は、「食べる」ということはその素材をその生態から切り取って人間の食べられる形態にまで切断・選択・加工する過程を包含していること、そしてそのような現在の社会的な「食」の在り方が、野生から今日までの人類の全歴史をその内部に含んでいること、また、その形態はさらに医療など、他の人間存在の形態にもいまや浸透しはじめていること、として理解しなければならないということなのだと思います。
「初期心的現象」という、当時まだ日本ではだれも手を付けていなかった領域に、単独で果敢に取り組んだ村瀬さんが、21世紀の思想の在り処の一つとして「食べる」ことに着目し、アフリカの諸問題にまで繋がる根源の思考を提示しようとしているのが本書だと思います。「食べる」思想 ‾人が食うもの・神が喰うもの
「食べる」ことが孕む奥深さ
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私たちが「生きる」ことは、「食べる」ことによって支えられている。これは誰でも納得することだろうが、著者は私たちが「考える」ことも「食べる」ことによって支えられていると言う。いや、むしろ「食べる」ことから「考える」ことが生まれ、「食べる」ことの孕む奥深い問題から、「考える」ことが深められてきたと言いたいのだ。その奥深さを示すため、著者は神話や説話、童話や絵本、映画や書物など、たくさんの実例を挙げながら具体的に述べていく。
私たちは、生きて動く豚を目の前にしても、普通「おいしそう」とは感じない。が、その肉が口に入る大きさに切られ、焼かれ味付けされて目の前に出されると「おいしそう」と実感する。ここで、豚という(同一の)食材を見ていたはずの私たち(の思考)に生じた違いを、いったいどう考えたらいいのか? それはそう簡単な問題ではないと著者は言いつつ、著者の視点から見えてくることをとても分かりやすく示してくれる。これは著者の記す多様な内容のほんの一例(ただし、土台となる例)で、さらに他の書物では得られない論が巾広く展開されていく。ぜひ一読すべきと、お勧めできる。
もう一つだけ、興味深かったことを記す。人間が狩猟で食べ物を得ていた昔、人間は苦労して捕らえた獲物を食べ、明日を生きる活力を得て子孫も増やした。獲物は切り刻んで食べ尽くされたが、人間は生きて、生み増やせた。では、獲物である熊や鹿や鮭は、何(誰)が生み増やし、ある季節ごと人間にもたらしてくれるのか? そのものが、動物を生み増やすためには、そのものは(人間がそうしたように)まず食べなければならない。こうして「食べる神」として「神」は創造され、神に食べ物を捧げる儀式―「供犠」が執り行われた。著者は、この人間と神とのあり方を「逆さまの関係」と言う。ここからは、「カニバリズム」(の必然性)を冷静に捉える視点さえもが得られる。まことに、この書自体がとても奥深いのである。