まだ理解できないのは、考えたことがないから?
★★★☆☆
自分の経験から物語を噛み砕いてきたことはあれど、
深く対象を見つめてきたことはない。
だからこそ、まだ理解できないことが多いんだろう。
「なぜ?」という行為を怠ってきた証拠だ。
加藤、フェルマン、カミュ
★★★★☆
もうすでに沢山のレヴューがありますが、あえていまさら屋上屋を重ねる愚を犯します。
本書での著者のスタンスは大変明快で「自分を絶対的と信じる立場からの批判は、うさんくさいぞ」ということになります。その観点から戦争論(戦後責任論争での高橋哲哉やソンタグ)、フェミニズム(上野千鶴子ほか)、ラカニスト(あえてこう言いますが、藤田博史など)が批判されてます。また近年の思想系の批評が、<他者>という基準(ではないのですが…)を持ち出して、それをいわば金科玉条として、他の立場を批判するというシェーマを有すること、それがレヴィナスの倫理学、特に<顔>という概念ならざる概念から派生したものであることを強く憂いています。著者いわく、レヴィナスの<顔>は、単に私(自我)を審問するだけではなく、欲望させ、殺意を抱かせるような、きわめてエロス的なものであると。したがってレヴィナスは、他者の<顔>に対しては、神を前にした時のように頭を垂れてそれに従うか、寡婦や孤児を遇するかのように歓待し、愛さねばならないと述べていると指摘しています。
じゃあ著者の立場は?というと、加藤典洋‐大岡昇平(戦争における個人の物語を描くこと)、フェルマン(女という物語を聴き、語ること)、カミュ(レジスタンスのモラルから戦後の「ためらいの倫理」への移行)といった立場、いわば文学的な、ナラティブな立場にシンパシーを示しています。これはこれで、説得力があります。
デリダも再三、「脱構築はニヒリズムではないし、ネガティブなものではない。むしろ肯定的なaffirmativeものだ」と言っていましたが、内田は<物語>の肯定性を称揚していると思われます。
いい本です。
ためらいなく語られるためらいの倫理学
★★★★★
今をときめく評論家・エッセイスト内田樹の、記念すべきデビュー作である。
「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」「なぜ私は審問の語法で語らないか」「それではいかに物語るのか」の四つの章に分かれている。通底しているのは(『ためらいの倫理学』というタイトルに示されているように)、語りの態度としての「ためらい」の必要性である、と言っていいであろう。
内田は言う。私は自信満々の語りを信じない。ためらいのない語りを信じない。なぜなら「自分は間違っているかも知れない」というためらいこそが、真正な語りの必要条件であるからだ(十分条件ではないが)。「自分は正しい」という信念に基づく、異論反論をシャットアウトするような自信満々の語りは、その時点で他者に耳を傾ける謙虚さを失っており、真正ではありえない。内田はそう言ってスーザン・ソンタグや宮台真司といった「自信満々の」論客を一刀両断する。
内田の言っていることは正しいと思う。しかし気になるのは、「真正な語りにはためらいが必要である」と語っている内田の口調に、ためらいが感じられないことである。「自信満々の語りを私は信じない」と、自信満々に語っていることである。
もっともそんな不満を吹き飛ばしてしまうほど、内容は充実しており面白い。その後の内田の活躍も大いにうなずける、デビュー作とは思えないレベルの高さである。今後も目が離せない論客の一人であることは間違いない――とためらいつつも言っておこう。
人を呪わば穴二つ
★★☆☆☆
この本で内田氏は「現実の矛盾やねじれを受け入れ、なるべく白黒をはっきりさせず、ためらうべきだ」と主張します。つまり、政治的な思考を批判して哲学的な思考を称賛するということです。ただ、内田氏も他人を批判する時は(当然ですが)白黒はっきりさせ(内田氏自身も正義だとか正しいという言葉をよく使います)批判するわけで、言うなれば、この本は自分で「ためらわない奴はバカ」と規定しておきながら、内田氏自身が自分の手で自分がバカなのを暴いていくという変な本になっています。(内田氏が設定するバカの基準に内田氏自身があてはまっているという意味です。内田氏が開き直りで使う「無知の知」ではないです)
内田氏の主張以前の根本的な疑問も何個かあります。そもそも内田式処世術(なるべく白黒はっきりさせない哲学的思考)が許されるのは現実から隔離された「象牙の塔の住人」の特権ではないでしょうか。
政治活動家に対して政治的思考をするな、という矛盾した批判が成り立つのかも疑問です。政治活動家は象牙の塔の住人とは違い、常に現実と向き合い、限られた条件、限られた情報、限られた時間の中で、時に悪魔と手を結び、汚い仕事を引き受け(道徳的には非難されても政治的には正しいということはよくある)、社会を変革したり、社会秩序を回復したりすることが仕事なわけで、そもそも内田氏の批判は的外れではないでしょうか。(内田氏はこの問題を知性にリンクさせて批判していますが、この問題は明らかに立場の違いでしょう。内田氏の問題設定では常に象牙の塔の住人が勝利することになり、これは正に内田氏が言うところの「不敗(腐敗)の構造」でしょう)
いずれにせよ、ためらうと言いながらためらわず、語らないと言いながら語る、内田氏の自分に対する評価は高すぎると思います。
内田樹はスゴイぞ。
★★★★☆
一読して「ヒデぇな、コリャ」とちょっとがっかり。この人の書くものは読みやすく、読む人を惹きつける力はある。おもしろい。前々からそう思っていたから、読んでみたのだけれど、その「おもしろい」の次元が「笑える」という程度に過ぎないな、というのが一読しての印象。部分々々には「一理あるな」と納得させられるところがあるのだけれど、肝心の結論のところで――フェミニズムへの批判にしても、宮台真司に対する批判にしても――完全に敗北している。「あぁ、上野千鶴子なら〜〜と言って事も無げに反駁するだろうなぁ」「宮台ならこういう反論であっさり覆してしまうだろうなぁ」ということが、あまりに容易に想像がついてしまう。そういう意味で「内田樹は意外にもあまり知的レベルが高くないぞ」と思いかけてしまった。しかし、時間をかけて考えるうちにこれがこの人の作戦なのではないか? と思い始めた。内田樹の伝えようとしていることは結論にあるのではなく、部分々々の「一理あるな」と納得させられるところの方じゃないかと……。つまり。「これはシロート向けの駄文ですから」というエクスキューズを表面的なスタイルにとっておいて、しかも結論ではあたかも無自覚に馬鹿なことを言っているかのように見せ、「ハナシにならんな」と鼻で笑わせておく。しかし、内田が一番やりたいことは、その結論の馬鹿馬鹿しさ(失敬!)にすら気づかない層もふくめた幅広い読者たちが、結論以外の「一理あるな」と思わされる部分等をもとに疑問や想像を膨張させて「既に決着済み」とされていることにも再考を始める、そういう「揺さぶり」に狙いがあるのではないか。たとえそれが完全に自覚的ではないにしても、それこそ筆者が繰り返し引いているレヴィストロース言うところの「野生の思考」に通じるではないか。内田樹、おそるべし。しかし、それでも結局この人のしていることは「ネガティヴ・キャンペーン」の域を出ない現状批判であって、具体的な対案は何一つ示されない。それで星1つ減らして、4つです。