ファーブル関連書の出版点数では、日本は世界で群を抜いているという。筆者はその理由として虫好きな国民性、フランスの蝶蛾との共通種が多かったこと、そして「虫=悪魔が作りしもの」的な人間中心の宗教観が極めて希薄だったことあげている。そのうえで、「生物への愛、自然への畏怖心を忘れてはならない」というファーブルの遺志の継承を「ウマが合う」日本人たちに呼びかけている。
ファーブルの『昆虫記』をわが国で初めて翻訳した無政府主義者、大杉栄は、その「ウマが合う」1人であったようだ。それは本書で引用されている、ある日本人仏文学者の大杉評のなかに見ることができる。「ファーブルは権威主義、事大主義を嫌い、精妙な観察力と緻密な推論をもって、偶像破壊に情熱を燃やし続けたが、自然という無限の源泉に浸る喜び、感受性を失うことはなかった。大杉はその姿を自らの鑑ととらえ、励ましと慰めを得ていたのではあるまいか」。
筆者自らも自身の言葉で、目先の利益や名誉に心を奪われた現代の遺伝子工学の研究者たちに対し警鐘をならしている。だが本書を一読してもっとも心に響くのが次の短い逸話だ。「蜂は、獲物を狩るための技をどうやって身につけたのか」というhra