ロドリゴに真の救いは訪れるのか?
★★★★☆
沈黙とは、神の沈黙の意である。
極東の地で、日本人キリスト教徒がお上から棄教を迫られ拷問を受ける最中、主人公であるポルトガル司祭ロドリゴが救いを求めてどんなに祈りを捧げても、ひたすら沈黙を守る神。神は本当に居るのか?もし居るなら、何故こんな過酷な受難の最中も、主は救いの手を差し伸べるどころか、励ましの言葉さえかけてくれないのか?牢に入れられ、転ばぬ自分の身代わりとなって穴吊りの刑に処せられる棄教者らの呻き声を耳にして、ロドリゴがひたすら唱える祈りの言葉にも応えることなく、沈黙を守る神。それでも転ばぬロドリゴに師フェレイラは、転ばぬ理由は教会を裏切ることを恐れるからに過ぎず、もしキリスト自身が同じ立場であったとすれば、きっと転んだ筈だと諭す。ついに踏み絵に足をかけたロドリゴの眼に映ったキリスト像は、哀しげに『踏むがいい』と語りかけていた。そして生き延びたロドリゴは、教会を裏切っても、キリストを裏切りはしなかった、と自らに言い聞かせる。
キチジローが言うように、もしこんな迫害さえ受けなければ、彼らは真っ当なキリスト教徒として、その救いを頼みに現世の苦難に耐えながらも、幸せな人生をおくることが出来ただろう。しかし現実には、キリスト教徒であること自体が苦難の元になると言う、理不尽な境遇に追い込まれる日本人教徒ら。そして、自らの存在が教徒らに苦難を齎すことになってしまう、という矛盾に苦しめられるポルトガル司祭たち。
著者が長崎で見た、実物の踏み絵に喚起された想像力が、史実を元に生み出した小説。無論、ロドリゴのモデルとなった現実のポルトガル司祭が如何なる思いで棄教したかは、知る由も無いが、主人公ロドリゴが自らに言い聞かせた理屈は、著者遠藤のクリスチャンでありかつ作家としての解答であろう。
本当は、ロドリゴはどんなに日本人が苦しめられようと、転ぶべきでは無かったろうか?どんなに過酷な拷問にかけられても決して棄教せず、死んで行ったトモギ村の教徒らのことを思えば、理屈の上ではその選択肢もあった筈であろう。今風に言えば、人質を盾に自らの要求を通そうとするテロリストの脅しには、断固妥協すべきではない、という立場だ。確かに、一度でも要求を呑めば、テロの連鎖は止まらなくなる恐れがある。そもそも、教徒らを苦しめているのは、司祭らではなく、お上である井上筑後守らであり、司祭らではない筈だから。しかし、実在の司祭も小説中のロドリゴもその選択肢は選ばなかった。
なぜか?
恐らく実在の司祭は、神の存在など腹の底では信じてはいなかったのではないか。だから教徒らが拷問に合い、自ら殉教に身をゆだねることに意味を見出せなかったのでは無いか。何故なら、本来殉教は神の国への切符を約束している筈なのに、敢えてその切符を拒ばむのは、本当はそんな切符など与えられはしないと分かっていたからではないのか。でなければ、神の国を棄ててまで、教会を裏切る理由が分からない。しかも、苦しんでいるのはキリスト教徒ではなく、それを棄てた者たちなのだから。つまり、実在の司祭は、極めて現世的な価値基準に従って行動したのではないかと思われる。
一方、小説中の司祭ロドリゴは、逆に神の救いを信じていたとしても教会を信じてはいなかった可能性がある。それが、ロドリゴの最後の言葉にいみじくも表明されている。
『聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない』
しかしこの言葉は、極めて危うい言葉だ。何故なら、この言葉は、誰にも証明できないから。ただ、ロドリゴがひとり心で思っているだけだからだ。他人から見れば、先の実在の司祭と同じように現世的な価値判断をしただけだ、と受け取られ兼ねないのだ。否、これは自分にとっても証明できないとも言いうる。つまり、自己欺瞞の危険すら孕んでいるのだ。意識ではそう思っていても、無意識に自己防衛本能が働き、保身に走ったとも言いうるのだ。
そういう意味で、私にはこの結末はやや不満が残る。このままでは、ロドリゴが極めて小さな人間のまま終わってしまうように思えてならないのだ。つまり、本当の所は別なのに、自分が自分にそう言い聞かせているように思えてしまうのだ。そういう意味で、先のロドリゴの最後の言葉は、自ら語るのではなく他者から語られるべきだったと思う。でなければ、ロドリゴに真の救いは訪れることは無いのではないか?私には、そう思われてならない(H22.3.14)。
沈黙の先に
★★★★☆
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリスト教徒に対する弾圧は激しさを増していった。司祭という立場に置かれながら、神の存在、背教の心理、文化の違いによる思想の断絶などの問題と対峙する。
祈りという一方向的な事柄に対する沈黙は、認識の差こそあれ相互的な事柄へと昇華できる可能性を秘めているのかもしれません…。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」
いろいろ投げ掛けてはくれるが、詳細な答えは書かれていない。
★★★☆☆
禁教後、江戸時代初期の日本に忍び込んだ司祭:ロドリゴの物語である。史実を元にしたフィクションである。
カトリックの聖職者としての頑なな信仰を持つ司祭が、禁教国の現実に直面し、
信仰と現実のギャップを埋めるべく、必死に信仰の合理化を図る様が執拗に描写されている。
唯一のテキストを経典とし、頑なで固定的な信仰のスタイルを持つ宗教の不毛さが伝わってきた。
聖書にある神の言葉は大昔に書かれたままであり、現実に合わせて変化することは決してない。
ロドリゴが限られた聖書の言葉を恣意的に現実に適合させるのに心を砕く様は痛々しかった。
幾ら敬虔な信心を捧げても、応えぬ神。
そもそもなんで日本にカトリックを広める必要があったのか。
ロドリゴの師:フェレイラは「我々の神は日本人には理解されない」と言い、
沢山の切支丹を転ばせてきた井上筑後守は「(正統の指導者を失って)残った切支丹は得体のしれないものとなるだろう」と言うが、
どちらも事実と思われる。特に井上の台詞はそのままに、今につながる隠れキリシタンの存在を指している。
最終的にロドリゴが辿り着いた結論はそれなりに良かった。
しかし、自分から禁教国に忍び込んで苦しんでおきながら、
平和なところで生きている他のカトリックの聖職者を悪しざまに言うのは如何なものかと思った。
この司祭は初めは他の聖職者から日本行きを強く反対され、その反対を振り切って潜入したのである。
そうまでして潜入した挙句に、
「自分は彼等(ヨーロッパの聖職者)を裏切ってもあの人(キリスト)を決して裏切っていない」
などという捨て台詞を吐く。
自分から是非日本に行きたい、と言っていたのを忘れたかのような口の利き方である。
これは作者がもつカトリックへの拘りと、それに相反する異端的な思いとの不調和を克服できなかったことの表れに思えた。
そのような不調和があることを、作者は最期まで自覚しなかったのではないかとも感じた。
なんで遠藤周作はカトリックの枠組みに拘りつつ信仰の中身を捻じ曲げようとするのだろう。
キリスト教会よりもキリスト、というのは良いが、それを以て他の聖職者を悪しざまに言うのは違う気がした。
毛嫌いは損なだけであった
★★★★★
毛嫌いは損なだけであった。
遠藤周作もキリスト教も
嫌いだったので読まずに損をしていた。
キリスト教と武士道の殉教に対する
類似した考え方など、学ぶことはたくさんある。
そして何より
これは遠藤周作もキリストも越えた
人間の物語として優れている。
キリスト教を知るためには・・・
★★★★★
キリスト教の信者になろうかどうかと迷っているときに、この本に出会った。
わたしはミッション系の女子高を卒業したが、それが返って反面教師になっていて
キリスト教に対する誤解というか、思い込みのようなものがあった。
それを払拭してくれたのが、この本だった。
宗教家の間には、賛否両論あるだろう。しかし、私にとってはキリスト教を
納得するのに一歩近づけた本だった。